国を愛して何が悪い236

しかしどのように語ってみても、語り難く伝え難いことばばかりだ。世阿弥たちの語ったところをこうして引用してみると、次から次へと難題を提出し、それを乗り越えようとするときの身悶えが、言語表現の上にも、まざまざとあらわれていることがわかる。亀井 そこで、解釈が生まれる。そして、堕落する。解釈に堕落した人たちを、評論家という。 世阿弥は窮したように、さまざまの言葉を発明する。そのひとつだって定義は不…

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国を愛して何が悪い235

「風姿花伝第一」のなかで、五十有余になると、「せぬならでは手立てあるまじ」という観阿弥の晩年の心境を伝えている。「せぬ」とは何か。芸の或る円熟をめぐって、観阿弥の苦渋の顔が浮かんでくるような言葉だ。「花鏡」の奥の段では、世阿弥ははっきりと、「せぬをもて手立てとする也」と言い切っている。亀井 此の時分の習事と者、まづ、物数を少なくすべし。音曲を本として、風体を浅く、舞などをも手を少なく、古風の名…

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国を愛して何が悪い234

重要なのはこのときの「姿」だ。ところで「姿」という言葉ほど厄介なものはない。世阿弥は注意しているが、能の基本が「ものまね」だからといって、それだけを最上と心得て、「姿」を忘れては「幽玄の境」に入ることは出来ないと。その「姿」を、一体、どのようにして形成し、さらに確認するのか。言わば自己を知る方法なのだが、次のような難題を世阿弥は提出する。亀井 見所より見る所の風姿は、我が離見也。然れば、わが眼…

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