生きるに意味などない31

心理学者たちが知能のテストに専心してきたここ半世紀の間、彼らは大部分、まちがった樹に吠え掛かるような全くの見当違いをしてきたが、このように見当違いをする腕前というものは、明らかにその哲学上の祖先から受け継がれたものである。
150年前シェリは次のように述べている。「哲学者たちの過ちのほとんどは、人間をあまりに仔細な限られた見地から考察することに出ている。人間は単に道徳的なそして知的なだけの存在ではなく、また、ひときわぬきん出て想像力豊かな存在でもある」
コーエン

その知能テストを信じてきた人たちが、また、随分と多いのである。
更に、それのみに、人間の価値があると、勘違いした、多くの教育者たち・・・

人間の想像力を無視した、哲学者たち・・・
その想像力こそ、意味を見出す、大元だった。
つまり、人間の、幻想力、妄想力である。

実際、人間を生かしているものは、その幻想と、妄想なのである。

人間の、想像力が、すべてを生み出したという、言い方も、一理あるが・・・
大半が、成功していないのである。
もし、成功していれば、人類は、すでに、この世にいない。
消滅しているだろう。

想像力とは、別名は、破壊力である。

心、あるいは大脳について包括的な見方をするには、理論的なまたは科学的な知力の及ぶ範囲を越えていると思われるさまざまな活動を無視できない。またこの包括的な見方は、感覚にとって、「確実」だと思われることや、自然科学の描く不完全な世界像だけに限定されうるものでもない。
包括的な見地は、それが科学上の地位を占めることを主張するのならば、心的に働きの全範囲を含まなければならないのであって、証明しうる知識を打ち立てるのに妥当だと考えられているものだけに限ってはならない。
自然科学以外に、たとえそれが自然科学と種類の異なる知識ではないにしても、人はいつもも異なったさまざまな経験を認めてきたし、また様式の異なる現実をすら認めてきた。たとえば、詩的、音楽的、宗教的、神秘的現実などがそうである。
これらその他の様式は、主観的には、足の下の大地と同じくらい、そのあり方において現実的なものである。われわれはそれらに従っており、またそれらはわれわれの生活を支配している。
コーエン

つまり、頭脳活動、知的活動だけではないと、言う。
当然である。
人間には、様々な、活動と感触がある。

詩的、音楽的、宗教的、神秘的・・・
すべて、大地と同じくらい、現実的なもの。

それらは、すべて、想像力であり、幻想、妄想なのである。
だが、それらも、実に、現実なのである。
その通りだ。

見えないモノが見える人が、そこに在るというならば、そこに在るのである。
それが、精神的に狂いでも、その在る、は、あるのである。
誰も、否定出来ない。

だから、意味というものも、その意味がある人には、在るのである。

私は、誰の意見も聞く。
そして、否定はしない。
ただし、それを他人に、強制することは、否定する。

足の下にある大地と同じくらいの、幻想と、妄想がある。

経験のこのような象徴的様式については、神経学はそれ自体としては何も教えることができない。精神神経学的還元主義の熱烈な唱道者であるラシュリですら、彼が「心理学は、こんにち、神経生理学よりももっと基礎的な科学である」と言明したとき、このことを認めたのであった。
彼はさらに続ける。なぜなら、行動における神経作用の諸法則は実証しうる心理学的事実に合致しなければならぬのに反して、神経生理学は、行動の常態的な体制化を予測するための原理をほとんど提供していないからである。
コーエン

面白い事を言う。

この理由だけでは、心理学が科学であることの規準として、他の科学への翻訳可能性に対する要求を正当化するのは困難である。
心理学の研究者は神経学に翻訳可能な用語でものをいうことが必要である、と説く幾人かの理論家がある。
「なぜか」と尋ねれば疑いなく、そうすることがより生産的だからという答えを聞かされるだろう。しかし、ほんとうにそうなのかどうかは、確かにメタ・サイエンティフィックな見解の問題である。
科学的生産性についてはほかに規準が何もないからである。おそらく心的「モデル」あるいは心的規準とよばれてよいようなものも、実験や予測や理解を導くのには、神経学的「モデル」と同じく適切なものかもしれない。
もっともこの二つのタイプのモデルは、別に相互に排反し合う必要はないであろう。理論家が心理学的「モデル」をとるか、それとも神経学的「モデル」をとるか、また彼が、そのいずれに対して知的にいっそう満足を覚えるかは、けっきょく好みの問題であろう。
コーエン

人を食ったような、著述である。

こうして、人間性の心理学、という、著述、著作を書くという、心理学者である。
その中の、心理学の一つの見方、から、引用している。

心理学の見方としても、数多くある。
そのたった、一つの、見方である。
しかし、既存の心理学者とは、違う。

それまでの、心理学に対する批判において、著述しているのである。

そうして、新しい心理学の道を、切り開くという、試み・・・
更に、意味付けである。

最後は、好みの問題である。
何を、好むか・・・

その程度なのである。