生きるに意味などない32

現代科学はまばゆいばかりの進歩を示しているが、それでもこのような業績の頂点に到達するに至った隠れた通路を探るのを、われわれに思い止らせるものではない。
前論理的あるいは前科学的とははるかに違うが、いわば「非直訳的な自由奔放な」心的活動とよばれるものは、科学的発明そのものの必然的な特徴である。
コーエン

この、心的活動とは、幻想、妄想の類である。
心理学は、その心的活動を探る学問である。

だが、既存の心理学は、ただの、残滓にのみ、興味を示す。
特に、日本の場合は、欧米の心理学を持って、心理学と、称している。
呆れる。

アメリカ人と、日本人の、心理的活動は、違うのである。
欧米の心理学を持って、日本人の問題を解決しようと、散々に努力するが・・・

薬一つで、解決ということも、多々ある。

マスコミなどに登場する、心理学者のお話は、隣の爺さんでもする。

本当は、何も知らない、解らないのである。
もし、それを知る、解るというなら、それを信仰しているのである。
その程度が、心理学者と呼ばれる。

科学的発明そのものの必然的な特徴である・・・
それが、非直訳的な自由奔放な・・・である。
つまり、夢である。

人は夢を見て、発明するのである。
発明とは、その程度のこと。
大騒ぎする必要は無い。

一般的に「想像力」とよばれるものとは別に働く「科学的知性」のようなものがあると考える必要はない。また科学的思考は、内省によって完全にとらえられる意識的な働きでもない。発見の行為をしながらそれを不意打ちにとらえようと待ち構えている人びとは、眠っているとき自分がどんな姿にみえるかを見ようとして、目を閉じて鏡の前に立っている少年のように感ぜられる。
コーエン

コーエンは、既存の心理学者に対して、実に、奇抜に、批判している。
目を閉じて鏡の前に立っている少年のように感ぜられる・・・
上記が、心理学者である。

余程の馬鹿である。
しかし、私は、学者として、それで、生活の糧を得ているのだから、価値はあると、思っている。

ただし、コーエンの、何々的という言葉に、抵抗を感じるが・・・

科学における思考は、初めから終わりまでたどることのできる一連の段階を追った働きではないし、また論理学によってあらかじめ定められた道を守るものではけっしてない。科学的知性は、実際はっきりと規定された認知過程ではない。
それは、いやしくも働くべきときには、不可欠の、ことばにならない、そして多分それと確かめ得ない要素の半影を有している。
コーエン

つまり、よく解らない過程を経て、発明、発見されるというのだ。

発明家は、いつも、のんびりとしている。
遊んでいるように、見える。
そして、遊んでいるのだ。

人生を、遊んでいる・・・
こんな状態が、本当の人生と、言っておく。

何か、特別な使命など、無い。
ある訳が無い。

あなたには、使命がありますと言う人の言葉を、信じることなかれ。
それは、騙すテクニックである。

いい言葉がある。
あるがままに・・・
しかし、その、あるがまま、を、知らない。
皆々、生まれ、環境、習慣、教育などにより、あるがまま、など、生きられなくなっている。
そのように、定められている。

つまり、観念、である。
だから、観念まみれを、好む。

不可欠の、ことばにならない、そして多分それと確かめ得ない要素の半影を有している・・・

言葉にならないことを、言葉にするという、強制法で、人間は生きて来た。
特に、欧米の語る思想は、そのようである。
兎に角、言葉にしなけば、収まらないのである。

日本人には、もののあはれ、という言葉がある。
何も、言葉が出ないとき、あはれ、という言葉で、すべてのことを表現する。また、出来るのが、あはれ、なのである。

これ一つ取っても、民族別の、心理学が必要なのである。

更に、欧米の心理学を持って、押し付けるように、日本人を教育すると・・・
破綻する。
そして、すでに、破綻している。

また、分析すると、狂う。
狂わずにいるのは、知らないからである。