生きるに意味などない35

さて肝心なところにきた。生き延びるために外部世界の現実に合わせなければならない経験と、生死の問題にかかわりなく変わることのできるその他の経験とがあると考えてみる。第一のカテゴリーは、「知性的」な活動には適しているが、「想像的」な活動には不適なものと考えることができる。
そして経験の第二のカテゴリーについてはこの逆である。つまり「真空反応」は、もしそれが、欲望とその充足との間におかれる遅滞に対して内的な統制を必要とする場面で生ずるなら、それは「非知性的」である。
しかし外部世界でのどんな行為をも必要としないような場面では、それは高度に想像的なものとなろう。
コーエン 改行は私

生きるために、現実に合わせる、知性的と、真空反応による、非知性的な世界、そして、想像的な行為。

共に、経験として、理解されている。
想像的なことも、経験なのである。

ここでは、知性的も、想像的も、現実世界なのである。

私は、この、知性的、想像的という、言葉が、気に入らないのだが・・・
知性、想像ではない。
そのような、もの、という意識なのか・・・

われわれが導かれてきた見解はこれである。
マケー教授に示唆にしたがって、行為は、それをひきおこす明証性の正しいコク値で起こるならば、知性的であるといってよかろう。過去においてその場面が要求したものによって測ってみて、もしそのコク値が高すぎる場合、行為はほとんどまれにしか起こらないであろう。
またそれが低すぎるならば、行為はあまりにもしばしば起こりすぎるであろう。一方、明証性の最適なコク値は、この両極に位置するといえよう。
こうして「非知性的」な行動には二つの対照的なタイプがある。
なお活動は、それが外側からの明証性に依存しない程度に応じて「想像的」だといえる、ということをこれにつけ加えることができる。
もちろんこの場合、場面が、生存のためにもろもろの信号を、現実に沿って評価することを要求していないことが前提である。
レンブラントの人物画を鑑賞している人は「想像的」にふるまっているのであるが、「地底に燃える火」という題のあいまいさにひかれただけで映画を見にゆき、満足できなかった人は「非知性的」に行動しているのである。
この定式は仮のものとして受け取られてよいが、わたくしが伝えようとしているものを示すのに役立てばと思う。
コーエン

つなみに、コク値、とは、敷居のような意味である。

この定式は、仮のもの・・・
コーエンの、言いたいこと・・・

経験に関する、意識である。
要するに、すべてが、現実なのである。

知性的、想像的、その逆、そして、明証性。

味噌も糞も、一緒なのが、現実であると、言う。
それを、私は、この世は、地獄と、言う。

何が良いか、悪いか、ではない。
経験というものを、捉える考え方、見方である。

心理学の一つの見方・・・
なのであるから、たった一つの、見方なのである。

その、経験というものを、生きると、同じ意識で扱う。
それでは、その経験というものを、どのように、分析するのか。

人間は、体験が無くても、経験が出来る。
それは、知性と、想像性による。

究極、体験でなくとも、経験が出来る、それが、現実なのである。

つまり、空想も、現実なのである。
それを、知性的、想像的、そして、その逆も、然り。

大そうな、遊びである。
これらは、知的遊戯なのである。
そして、知的遊戯は、生きること、そのものである。

そして、分析を楽しみ、生きる実感を得る。また、学問の場にあると、思い込むことができる。

更に、意味意識まで、作り上げるのである。

この論文は、文学であり、哲学であり、心理学なのである。
何とでも、後付で意味を持たせることが出来る。

そうして、人間は無用な遊びを繰り返して、進化、進歩してきた。
と、思い込む。

私に言わせれば、心理学でも、他の学問でも、同じである。
人間の、経験の世界は、まさに、百人百様である。

同じ経験など、持ち合わせない。
ガン患者が、皆々、同じではなのと、一緒である。

例えば、同じ場面に佇んでも、その経験は、別々なのである。
他人を理解する、共感するということは、あり得ないのである。
ただ、辛うじて、理解した、共感としたと、信じ込んで、少しばかり、安心しているのである。

理解して、両極端の場にいることを知らない、人間の絶望的、いや、絶望の人生である。

絶望的などという、甘いものではない。
絶望なのである。

待ったなしに、意味意識などが、吹っ飛ぶ、人生に立つのが、人間なのである。