生きるに意味などない44

精神疾患の症状に、意味があることを、フロイトが発見した。

これは、重大な発見であり、擬物論の大波を押し返す最初の反撃の拠点となった。これをきっかけとして、潮の流れが変わった。
意味とは、どう転んでも、物には還元できないのであった。物は物自体として存在しえるが、意味は意味自体としては存在しない。意味が存在する以上、意味を伝える者と、意味を受け取る者とが存在しており、両者のあいだにコミュニケーションがあるのでなければならない。
意味の存在は、それを了解する他者の存在を予定している。そして、ヒステリーや強迫神経症の症状は、その意味を精神分析者が了解し、患者に意識的に了解させれば、消滅するのであった。・・・
岸田 改行は私

例えば、岸田氏の上げる例を、簡単に書くと・・・

ある青年がいた。
家で食事をすると、たびたび嘔吐する。
しかし、外で、食べると、何でもない。

彼の嘔吐が消化器官の障害に起因するものではないことは、明らか。

問題は、母親である。
恩着せがましく、支配的な人であり、彼に対して、食べさせてやっているのだから、文句を言わず、言う事を、聞けという態度で、接していた。
彼の、嘔吐は、母親に対する、拒絶を意味していた。
彼も、そのことに、気づかずにいたのである。

息子が自分の嘔吐の意味を意識的に了解し、母親に対してその態度への不満と非難を表明することが出来れば・・・
あるいは、母親が、息子の嘔吐の意味を了解し、おのれの自己欺瞞に気づいて、態度を改めれば、嘔吐の症状は、消失する。

すなわち、神経症の症状は、物のレベルの原因とは無関係に発生し、消失するということである。
岸田

意味は意味自体としては存在しない。意味が存在する以上、意味を伝える者と、意味を受け取る者とが存在しており、両者のあいだにコミュニケーションがあるのでなければならない・・・

ここで、意味とは・・・
意味を伝える者と、受け取る者が存在する。

要するに、一人限りの意味は、無用なのである。
一人だけの、意味は、どうしようもない、もの。

意味付けすると、人に伝える。伝えたくなるのである。
そして、その行為が、存在する、存在感の証となる。

最近の精神身体医学は、ヒステリーの盲目や肢体麻痺のように器質的病変の見当たらない神経症的症状だけではなく、現実に器質的病変のある胃潰瘍や高血圧なども精神的原因で生ずることを明らかにしつつある。
心因性の身体疾患の存在を認めても、従来の考え方をそのまま改めていない者もいるけれども、物のレベルでの変化が精神的原因で生ずることを認めることは、擬物論的世界観の挫折を認めることであり、前者を認めて後者を認めないのは筋が通らないであろう。
岸田 改行は私

これは、とんでもないことになった。
心因性・・・
擬物論では、対抗出来ないものになったのである。

神経症の症状は、物のレベルの原因とは無関係に発生し、消失する・・・
さてさて、人間とは、実に複雑奇怪になったものである。

大脳化したのに・・・
大脳が損傷した訳でもなく、精神というものが、忽然と現れた。
これは、目に見えるものか・・・
精神は、目に見えない。
だが、存在すると、明確になった。

心理学では、精神を心とも、言う。
私は、精神と、心を分けて考えているが・・・

精神とは、言葉の世界のことであり、心とは、霊的な物事と、分けて考えている。

言葉は、イメージであった。
つまり、イメージの病・・・

それを、言葉にして、表現し、意味付けして、了解すると、治るという。

伝える者と、受け取る者・・・
ここに何か、ある。

つまり、イメージが傷つけられたのか・・・
イメージの世界が、潰された。

それで、心因性となるのか・・・

確かに、物だけでは、解決のつかない問題を、人間は、多く抱える。
それが、精神を作る。
つまり、イメージを作る。

ところが、イメージを作り上げても、歪んだイメージだと、精神が病む。
精神は、言葉の世界である。
そして、言葉は、イメージである。

つまり、堂々巡り・・・

堂々巡りしないために、次ぎに進む。
フロイト、そして、フロイト以後である。