生きるに意味などない45

フロイト以後の多くの精神分析者は、ますます精神疾患を意味、人間関係、コミュニケーションのレベルで捉える方向へ傾いていった。わたしもその方向に沿って、擬物論の大波を、ただ人間の精神現象からだけではなく、生命現象一般から追い払い、それ本来の領域、すなわち無機的自然、物の領域まで押し戻したいと思っているだけである。
擬物論によって、物しか説明できないのは、当たり前の話である。
岸田 改行は私

無機的自然、物の領域まで押し戻したいと思っている・・・
つまり、当たり前の状態に、戻すのである。

擬物論を、である。
ところが、今でも、この擬物論に陥る人が多数。

擬人化など、稚拙だという、賢い馬鹿である。

擬人論的人生観というもの・・・
実は、誰もが、知らずに行っている。

万葉集を読むと、亡き人が、雲になり、雨になる。
そういう擬人化を、現在も、行っているのである。

だから、少しばかりの、救いがあるのだろう。
この世に、物しかないと、信じる人は、無理だろうが・・・

しかし、この世に、物しかないと、断言出来る人はいない。
目に見えぬ物は、無いと、断言出来る馬鹿がいるだろうか。

この世は、目に見えない物だらけである。

精神活動も、目に見えるものではない。
心、というものも・・・

話をもとに戻すと、精神疾患とは、物のレベルではなく、意味のレベルの障害なのである。コミュニケーションの障害であると言い換えてもよい。
岸田

意味のレベルの障害・・・
つまり、精神の世界、つまり、言葉の世界となる。

そして、言葉は、イメージの世界である。

つまり、イメージの世界が、障害なのである。

そして、単に、適応障害となる。
この、適応障害とは、心理学ではなく、普通の人間として、考えると、単なる、置き換えの問題である。

その場を、去れば、いい。
しかし、去ることが出来ない。
それで、適応障害になる。

人間とは、何と、悲しいものなのか。

ただし、この世が嫌なら、おさらばすると、いい、とは、言わない。
それが、この世なのである。
つまり、私は、言う。
この世は、地獄なのである。

だから、適応障害でも何でも、生きなければならない。
何故か・・・
堂々巡りであるが、この世は、地獄だからである。

最初から、理想的な、この世に生まれたのではない。
そうすると、私も、この世に意味付けしていることになる。

それでは、この世は、天国でも、いい。
何と言葉で表現しても、よいのである。

何せ、生きるに意味などない、からである。

神経症と精神病を簡単に区別してしまうことには問題があるが、今ここではその点をさしおいて言わせてもらえば、神経症はむしろコミュニケーションの歪み、精神病(わたしがここで考えているのは、主として精神分裂病のことだが)はむしろコミュニケーションの遮断であると言うことができよう。
神経症の患者が症状の意味を意識的に了解すれば症状が消失するのは、それまで無意識の不合理な仕方で表現し、コミュニケートとーしようとしていた(したがって、充分うまく他者に伝わらなかった)その意味を、意識的、合理的に表現するようになり、他者との十全なコミュケーションが回復するからである。
岸田 改行は私

ここで解ることは、人は一人ではないという、当たり前のことである。

一人ではないから、他者との付き合いが必要なのであり、また、他者が存在するから、生きられるのである。

それなのに、孤独な存在が、人間である。
その孤独は、絶対なのである。
絶対的孤独・・・

どんなに、他者とコミュニケーションが、うまく進み、神経症にならずとも、孤独なのである。
それは、病気ではない。

自閉症の患者が、孤独と考える孤独と、普通の人が考える、孤独も、同じである。
神経症の人も、精神病の人も、ありとあらゆる人は、孤独なのである。

それを、紛らわすために、金儲けをしたり、ドロボーをする。
あるいは、宗教を奉ずる。

どんなにしても、人間の生きる、は、孤独である。

それに耐えられるか・・・
精々、生きる意味を見出して、生きるのみか・・・
いや、意味がなくても、生きられるのである。

擬物論としてではなく、擬人論でもなく、体が生きてくれるのである。