日々の言い分46

人生自体、バーチャル、仮想現実を生きているようなものだが・・・
別エッセイ、生きるに意味などない、を、参照ください。

この頃は、道を歩いていても、両耳を塞いで、音楽などを聴いて歩く人が多い。

現代の、自己、自我の問題を、どのように、捉えるのか・・・
私も、皆目検討がつかない。

だから、日本の役立たずの、心理学者たちは、是非、それを論じて欲しいと思うが、中々、まともなものに、会わない。

昔は、自己疎外などという、言葉が、踊った時期もある。
その前は、人間疎外、である。

今は、自己孤立の時代か・・・

完全に、外界を、シャットアウトするかのように、一人の世界に入っている様子である。

危険極まりないのだが・・・
自転車を乗る私は、その自己孤立状態にある人たちが、危険で、しょうがない。

だが、本人は、孤立などとは、思ってもいないはずだ。
時代が、そのようになっている。
そして、それは、都会も、田舎も、関係ないのである。

また、若者の姿は、アジア、世界的に、似たようになっている。

没個性の時代・・・
だが、そうでもない様子だ。

つまり、耳を塞いで聴いているものが、個性なのであり、自己なのであり、自我なのである。

更に、孤立化しようが関係ない。
自由・・・
個人の自由が、大手を振っている。

そして、現代の人たちは、それなりに、コミニュケーションを図っていると、思い込む。
由々しき事態とは、考えていない。

自分は、両耳を塞ぎ、自分の世界に入ることが、当たり前なのである。
そして、他者との関わりも、それなりに出来ていると、考えている様子だ。

それは、それでいいのだが・・・

バーチャルが、益々と深まると、どうなるのか・・・
あらゆるものが、仮想現実としてあると、私は認識するのだが。
その、仮想現実が、本当の現実であると、信じている姿。

だが、現実というものも、何処にあるのか、解らない。

話は、飛ぶが、着こなしという言葉は、着物を着ることに言えるが、洋服の場合も、着こなしと、平然として、表現する。

洋服の場合は、コーディネートである。
単なる、合わせることである。

その服装が、自分というものを、表わす一つの手段でもある。
それさえも、現在は、よく解らない。

幻想の世界にいて、更に、幻想を抱くと、どうなるのか・・・

要するに、他者に与えられたものにより、それを、合わせることにより、自己、自我を形成していると、思われる。

通常、個性的、個性というものは、自己、自我の問題だったが・・・

今は、モノに溢れて、それを合わせることが、自己、自我の問題になっている。
だから、創造性というものは、全く、見られない。

合わせ方・・・
それが、個性であり、自己、自我に合うことか・・・

今、目の前にある、現実が、すべて、バーチャルだと、気づいた時、人は、どんな感想を抱くのか、興味がある。

私は、人生が、妄想、幻想だと、捉えている。
それが、私の個性であり、自己、自我の、大元になる。

服装も、持ち物も、すべて、合わせる時代である。

その組み合わせが、私という、自己、自我を造っている。

モノ語り、という言い方があった。
自分を語るのに、モノ、持ち物を語る。

アイホンという、携帯電話、更に、多機能がついていて・・・
そこに、私が、隠されてある。
しかし、その、モノは、他者が考案して、様々な、機能をつけて、提供したものである。

それを、ただ、合わせる。
それは、着物を着る、着こなしのようではない。

だが、その、合わせ、が、現代の自己、自我の、形成を形作ると考えると、少しは、ホッとする。

そして、非常に、危険である。
道を歩いていて、外界を放置しているのであるから、事故に遭うかもしれない。
事故に遭うのは、何も、そんな時ばかりではないと言えるが・・・

事故に遭う確立は、大きい。

いつか、自己、自我で、迷うことが無いことを、祈る。