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1938年4月に、東京のアメリカ大使館付武官のキャーボット・コーヴィルが調査のために、南京にやってきた。米国大使館のジョン・アリソン領事などともに、ベイツなど外国人が集まって南京の状況を報告した。
コーヴィルは「南京では日本兵の略奪、強姦は数週間続いている。アリソンは大使館再開のため1月6日午前11時に南京に着いたが、掠奪、強姦はまだ盛んに行われていた」と報告している。なぜ、コーヴィルは殺人や虐殺を報告しなかったのか。ベイツまでいたというのに、一人として市民虐殺をアメリカ大使館付武官のコーヴィルに訴えなかった。
コーヴィルが「虐殺」を報告しなかった以上に、もっと摩訶不思議なことがある。
アメリカの新聞記者が「日本軍による虐殺」と想わせる報道をしているにもかかわらず、中央宣伝部は「南京大虐殺」を宣伝材料にして国際社会にアピールをしなかった。南京陥落後の四ヵ月後に中央宣伝部が創刊した「戦時中国」の創刊号は、「南京は1937年12月12日以降、金と略奪品と女を求めて隈なく町を歩き回る日本兵の狩猟場となった」と報告しただけで、「虐殺」にはまったく触れなかった。
そもそもベイツもフィッチも、南京城内の安全地帯にいた。前述したように、安全地帯では「大虐殺」どころか、「殺人」の被害届すらわずかしかなかった。それも目撃された殺人はゼロだった。いったい、ベイツやフィッチの描写する「三日間で一万二○○○人の非戦闘員の男女子供の殺人」や「約三万人の兵士の殺害」とは、どこで起こったのか。
ストークス
12月15日付のシカゴ・ディリー・ニューズで、スティール記者は「河岸近くの城壁を背にして、三百人の一群を整然と処刑している」と報じている。ところが、国民党政府もその中央宣伝部も、日本をいっさい非難していない。
ちなみに日本軍が安全地帯から連行した中国兵は、問題がないかぎり市民として登録されていた。敗残兵はクーリーつまり労働者ともなっていた。クーリは、月額五円の給料を支給―されていた。日本軍の一等兵の本給は、月額五円五十銭だった。
何とも、変な話だ。
敗残兵を雇っていたという。
日本軍は、虐殺など行っていないのである。
中央宣伝部がティンパーリーに依頼し、製作した宣伝本「戦争とは何か」について、興味深い事実がある。同書は漢訳されて「外人目撃中の日軍暴行」として出版された。
ところが、英文版にあったベイツが書いた第三章の文章から、次の、1と2が削除されていた。
1 「埋葬隊はその地点には三千の遺体があったと報しているが、それは大量死刑執行の後、そのまま並べられたままか、或いは積み重ねられたまま放置された」
2 「埋葬による証拠の示すところでは、四万近くの非武装の人間が南京城内または城門の附近で殺され、そのうちの約30パーセントは、かつて兵隊になったことのない人である」
中央宣伝部は、英文の読者は海外の外国人であるため、バレないと思った。しかし漢訳本となると、中国にいる事情通がこうした記述を読んだら、「それは事実ではない」と批判してくるかもしれない。虚偽の宣伝・プロパガンダだと露見してしまう。そこで二文を削除したと考えられる。
ストークス
更に、驚くべき事実がある。
中央宣伝部国際宣伝処工作概要の中の「対的課工作概況」には、この本の要約が掲載された。
驚くべきことに、この要約には、「大虐殺」「虐殺」どころか「殺人」という言葉も出ていない。唯一の理由は、国民党政府も、中央宣伝部も、国際宣伝処も「南京大虐殺」を認めていなかったということだ。もし「南京大虐殺」が事実であれば、「虐殺」という表現を使って大々的に宣伝していたことだろう。
ストークス
そして、更に、蒋介石と、毛沢東は、南京陥落後に、多くの演説を行っているが、一度も、日本軍が、南京で虐殺を行ったことに、言及していないということである。
つまり、虚構だったのだ。
捏造である。
世界が注目する中で行われた、敵の首都陥落戦である。天皇の軍隊である「皇軍」の名を穢すことがないように、南京攻略軍の司令官だった松井石根大将が、綱紀粛正を徹底していた。
ストークス
付け加えることがある。
南京城内に入城した、日本軍は、市民に歓迎されて、受け入れられた。
それは、日本軍が来ることは、治安が良くなり、安全になるからである。
そのように、知れ渡っていたのである。
中国の軍隊とは・・・
掠奪、強盗、強姦と、市民には、迷惑な存在でしかない。
更には、支配されると、莫大な税金がかけられる。
市民は、ただ、搾り取られるだけになる。
中国の軍隊、兵隊とは・・・
単なる、馬賊、匪賊の連中なのである。
ちなみに、中国で、初めて警察の組織を作ったのが、日本軍である。
日本軍は、中国では、何処の国の軍隊よりも、市民に歓迎された。
その証拠に、様々な、話がある。
それについては・・・
機会がある時に、書くことにする。