生きるに意味などない52

わたしは、生物のさまざまな種は地球上というこの条件下でどのように生活するのがもっともよいかについてのそれぞれの種の見解の相違を表わしていると思う。したがって、その見解の数だけ、生物の種が存在する。この人間社会においてどのように生活するのがもっともよいかについての各人の見解も千差万別である。・・・
人間でいえば、日和見主義、卑劣漢、怠け者、暴力主義者、平和主義者、臆病者、依存者、働き者、卑劣な者、疑い深い者、等々と呼び得るあらゆる生き方に対応する生き方をしている生物が必ず存在している。ある人について、あいつはハイエナのような奴だと言うとき、これは単なる比喩ではなくて、いかに生きるべきかの問題に関して彼とハイエナとの見解が一致しているということなのである。
岸田 省略、改行は私

要するに、善悪を超えて、人間の生き方がある。
それを、誰も、判定することは出来ない。
ただし、社会の法律によって、抑制、制限されることはある。また、社会的制裁を受けることもある。

しかし、どんな生き方も、許されていると、言う。

どんなに、迷ってもいいのである。
何かを信じて、騙されてもいいのである。

誰も、それには、文句を言える義理はない。

人の道に、背くことだ・・・
と、声を荒げても、何もならない。
人は、生きられるようにしか、生きられないのである。

それは、実に、悲しいことである。
どんなに、人に、軽蔑されようが、その生き方以外に、彼には、生き方がないのである。問題は、そこからである。

それを、観念するか、否か・・・

神仏は妄想である、が、そこにしか、居場所を得られない人もいる。
職業に貴賎はないというが、確実に、貴賎はある。

弁護士と、占い師の、どちらが、世間に信用されるのか・・・
明白である。

心理カウンセラーと、占い師と、どちらが信用されるのか・・・
答えは、明白である。

占い師は、嘘つき、詐欺師と言われること、多々ある。
私も、占い師の中に入るので、それは、証明済みである。

つまり、生きるに意味などない、のである。
いくら、意味付けをしても、せん無い事である。

詐欺師が、生きるに意味付けをして、それを、誰が、真に受けるだろうか。
暴力団の組員が、人生を説いて、一体、誰がそれを、理解するだろう。

無名な人の言葉より、有名な人の言葉を、信用する。
それが、人間である。
それが、関の山である。

岸田氏の、論調を利用して、私が、何事かを、書く。
それは、私にしか出来ないし、私は、そのようにしか、書けないのである。

だから、詮索は、無用である。
このエッセイが、理解出来ない・・・
当然である。

混乱させるために、書いている。
と、書いてみると、読んでいる人は、驚くだろう。

何も、混乱させるものは、ない。
何せ、何一つ、この世に、絶対ということはないからだ。

絶対、と言うと、そこからすでに、絶対ではなくなる。

私が言いたいことは、泥棒にも、三分の理屈があるということである。
つまり、誰でも、何かしらの、理屈、価値付けをしたいのである。

それは、生きることでも・・・
ヤクザも、堂々と、ヤクザの生き方を、説くのである。
暴力団として、反社会的行為をしても、その意義を説く、馬鹿者がいる。

どんな、世界でも、まず、意味付けがある。

それは、とても、面白い。
何せ、詐欺をする人達でも、意味がある。
どんな、反社会的行動を取るにせよ、そこに、意味を見出す。

何とも、救われない人間の、性である。

つまり、幻想、妄想の、意味付けを持って、皆々、生きているということだ。しかし、それは、死の前には、全くの、無力である。

そして、死は、確実に訪れるから、安心だ。
結果、人は、死ぬことによって、救われる。

救いが、死であることだ。
それだけが、確実なことであり、その他のことは、すべてが、幻想、妄想の中にあるのである。

何せ、この私と言う意識、自体が、危うい。