玉砕180

昭和47年7月5日、自民党の総裁選挙が行われた。
そこで、田中角栄が、総裁になった。

このときの、国民の支持率は、60パーセントを超えた。
田中は、小学卒であり、庶民派といわれた。
一介の土建屋から、自分の力で、この地位に登りつめたものは、今までになかった。

田中は、首相に就く前から、取り組む政策を、明らかにしていた。
それは、中国との国交正常化と、日本列島改造の、二本立てである。

その年に、田中著の「日本列島改造論」は、上半期のベストセラーになった。

当時の日本は、高度成長期の頂点にあった。
GNPは、毎年前年比、5パーセントと、伸びていき、国民所得は、世界のトップクラスである。

そして、経済至上主義的であり、文化、伝統というのは、脇に置いてという、時代風潮である。

何せ、敗戦後の、いまだ帰還していない、戦没者の遺骨収集など、忘れていたのである。

更に、反日左翼系の人たちが、幅を効かせて、戦争時のことは、すべて日本が悪いという、風潮でもあった。
兵士の慰霊などは、何処吹く風である。

人間は、綺麗ごとを言っても、金である。
田中角栄は、そういう風潮を代弁していたといって、いい。

「日本列島改造論」は、日本列島、隅々に、新幹線を通す。日本中、何処から何処までも、一日で、行ける。あるいは、往復出来るという、案である。

公共投資を進め、日本中にビルが建ち、高速道路が出来るというもの。

田中内閣が誕生すると、土地の価格が、一気に跳ね上がった。
企業が、全国各地の土地を買いあさる。
二束三文の山林でさえ、破格な価格で、売れた。

だが、これが、まもなく物価高になり、インフレを生むことになる。

田中は、就任から二ヵ月後、大平外相と共に、北京に飛び、毛沢東主席、周恩来首相と、中国外相と、日中共同声明の調印式を行った。

そして、40年に及ぶ、国交断絶に終止符を打ち、国交正常化を果たした。

その調印式で、田中は、
我が国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしましたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります。
と、言った。

これが、始まりとなった。
つまり、中国に対する、ODAである。

莫大な支援金を渡すことになる。

周恩来は、
1894年からの半世紀にわたって日本軍国主義者の中国侵略により中国人民がひどい状態におかれた。日本人民もそうだった。これを忘れることなく、後の戒めとしていこう。
という、スピーチをした。

とんでもない、デマである。

日本軍の侵略行為を、堂々と述べたのである。
一番、中国人民を苦しめたのは、共産党軍はじめ、中国の、匪賊、馬賊の軍隊である。

日本の、満州国建設は、その中国の乱世の中に、オアシスを作り出したものである。
皆々、その満州国に、逃れてきたのが、証拠である。

中国の、その何千年の権力闘争の中での、歴史である。
そして、勝者が、歴史を書きつける。つまり、勝者の歴史のみ、存在する。

現在は、中国共産党の歴史が、事実として、述べられる。
それ以外は、皆々、偽物とされる。

つまり、まともな、歴史は、存在しないのである。

日清戦争から、日本が、中国を侵略したことになっている。

チベット、ウイグル、南モンゴルを侵略したが、中国共産党は、開放したという、詭弁である。

昭和47年12月、総選挙が行われた。
意外なことに、自民党は、17議席も減った。
逆に、社会党が28議席と、日本共産党が、24議席増えた。

社共両党が、異常な伸びを示したのである。

更に、国政レベルだけではなく、知事選、市町村長選なども、社共推薦の候補が、相次いで、当選している。

つまり、田中内閣に対する、反撥が国民の中に根強く存在していたということだ。

しかし、社会党、共産党を支持した層は、田中内閣により、国民の権益が不動産、建設業などに、片寄るのを怒り、両党を使って、権益を守ろうとしたに過ぎなかったと、いえる。

そのうちに、田中の金権体質が、徹底的に暴かれ、叩かれることになる。
国民も、ようやく、田中の政治生活に疑問を持つようになったのである。

ただ、田中首相にも、不運な面があった。
就任一年後に、石油危機という、出来事に遭う。
それは、国際政治の結果だが、田中首相の政策の、不手際と評されたのである。

ただ今、田中角栄に対する、再評価が現れている様子だが・・・
私は、ただ、事実のみを、紹介する。