生きるに意味などない63

われわれは日常生活のあらゆる場面で、幻想我と現実我の葛藤を経験し、その調整に苦慮し、あれこれ迷い、ときには一方を、ときには他方を優先させ、絶えず揺れ動いている。
岸田

確かに、そのように、見える。

名を捨てて実を取ったとき、恥を忍んで嫌な上司に頭をさげたとき、降伏して命乞いをしたとき、われわれは現実我を選んだのであり、そのとき、なおざりにされた幻想我は、耐え難い屈辱感となって心に傷を残す。
岸田

人生が、そのようなことばかりであれば、辛いことである。
しかし、そのようである。

だが、私は、本質的に、それを受け入れることが出来ない。

嫌な上司に、頭を下げる。
降伏して、命乞いをする。
それが、幻想我を、傷つけ、屈辱感に浸らせる・・・

幻想我は、そんなに弱いものではない。
結果的に、人間は、幻想我に、戻ることが出来る。

岸田氏は、幻想我を選んだ後で、現実の損害と苦痛は、避け難いと言うが・・・
それは、自己意識過多のせいであろう。

それほど、人間が、上等なものだろうか。
プライド、矜持という、心のスタイルがあるが・・・
それも、つまるところ、幻想我なのである。

昔、殿様と家来の場面では、卑屈なほどに、家来は、殿様に、ひれ伏した。
人生とは、そのようなものである。

その時代は、その時代の通念であり、何も、不思議なことはなかった。
時代が変わり、身分というものの、囲いが取れた。
だから、もう、ひれ伏す必要はない。

そんなことは無い。
ひれ伏すものには、ひれ伏すべきである。

例えば、日本の君主であらせられる、天皇陛下に、ひれ伏すべきである。
その働きを思えば、当然の行為である。

ところが・・・どうだろうか・・・
幻想我のみの、人間には、そんな行為は出来ないのである。

幻想我は、私だけが、偉いのである。
そして、人間は、その幻想我だけで、生きている。

岸田氏が、レベルを落として、
幻想我と現実我の葛藤の最終的解決法は自殺しかないが、一時的解決法、気休め的解決法はいろいろとある。
として、その例を上げているが・・・

酒を飲むとか・・・
その他、色々。
気休めというならば・・・

毎日の生活が、気休めである。

この世の地獄を、まともな神経で、生きられるはずもない。
だから、気休めで、生きている。

勿論、仕事での、ストレスが、云々という話を聞く。
確かに、ストレスなのであろう。

だが、そのストレスも、単なる、妄想なのである。

辛い、苦しい・・・
だから、生きられる。
それで、精神が病んでしまった。
だから、矢張り、現実があり、それは、厳しいのである。
とは、言い訳である。

別に、あなた一人がいても、いなくても、世の中は、回るのである。
何か、勘違いをしているのだ。

その、私という意識・・・
それさえも、不確かなのに・・・

電通で、自殺した、若い女性がいた。
仕事のやり過ぎ・・・
それから、政府までも、取り上げて、云々。

その女性の、唯一の、間違いは、この世が、地獄と得心しなかった。
そして、真面目であった。
いや、真面目過ぎた。
そして、電通という会社の、体質は、地獄だった。

その地獄を、作り出したのは、誰か・・・

ほとんど、仕事をしない人たちによってである。
すでに、そこから、幻想であり、妄想なのである。

会社・・・
何事かしているが・・・
実際、何事かしていても、それは、単なる、暇つぶしなのである。

何かしなければ、治まらない。
だから、仕事をしている、様子である。
私は、仕事を軽蔑しているのではない。

仕事も、幻想、妄想の内にあると、言うのである。

日本人は、仕事も、一つの道として、修行するという、意識があった。
だから、世界から、脅威の目で見られる。
それは、日本の誇りである。

ただし、残念なことに、それも、実は、幻想、妄想なのである。
そして、その仕事に意味をつけるという行為は、まともに、暇をつぶしているということで、評価する。

人間は、死ぬために、暇をつぶさなければならない、生き物なのである。