生きるに意味などない64

ナルチシズムは、自己と対象との区別が成立する以前に形成されたものであるから、自己と対象の混同をその本質的条件の一つとして含んでいる。
幻想我は容易に他者と混同される。この条件を利用して、幻想我と現実我の葛藤を解決する方法もある。
対象を幻想我と同一視し、対象にナルチシズムを投影するのである。
岸田 改行は私

心理学的な表現である。
そして、この説明に、恋愛を使うと、実によく解るのである。

対象が幻想我と同一視されると、それまで自己の内側において演じられてきた幻想我と現実我の葛藤は、その場面がずらされて、理想化された、近づきがたい神々しい存在としての恋人と、その愛にあこがれながらも愛されるに値しないつまらぬ存在としての自分との対比という形を取る。幻想我のあらゆる属性が恋人に付与される。
岸田

お決まりの解説である。
心理学の得意とするもの。

さて、その通りであろう。
特に、片思いの場合は、最高である。

対象に、自分のナルチシズムを投影する・・・
そして、自己の内において、演じられた、幻想我と、現実我の、葛藤が、場面を変えるのである。

それを、理想化するという、アホ振りである。
つまり、自己、自分を理想化させるのである。

何せ、大元が、ナルチシズムである。
そこから、逃れられる人は、いるのか・・・

人生の大半が、そうである。
いや、それが、人生なのである。

そうして、フィクションの世界が出来上がる。
人類は、その、フィクションを作り続けて、生き延びてきた。

フィクションがなければ、生きることが、出来なかったと言う。

つまり、幻想我と共に、フィクションという、幻想である。
人生は、それである。

例えで、現実我と、岸田氏は書くが・・・
現実我など、ナンボのものでもない。

だが、面白いので、紹介する。

恋人は唯一無二の存在であり、この世のものならぬ美しさを具えている。その価値は無限であり、恋人のためなら、どのような犠牲も惜しくない。恋人に捧げる愛は、いっさいの現実的考慮を超えた無条件、無償、無限の愛である(もちろん、幻想のレベルで)。
しかし、内的葛藤の解決法としてのこのり種の恋愛は、非常にあぶなっかしいバランスの上に立っており、脆く崩れやすい。恋人が離れていってしまっても、近寄ってき過ぎても、この種の恋愛は破綻する。
幻想我と同一視された恋人に拒否され、見捨てられた現実我は絶望と劣等感の地獄に落ちるであろう。
岸田 改行は私

まあ、こんなものである、人生は・・・
皆々、この程度なのだ。

実は、主義も、主張も、後で、これと同じことだと、解る。

昔、ある青年の悩みを聞いた。
恋愛の問題である。

好きな女性がいる、悩んでいるとの、こと。
延々とする話に、私が、簡単に、それは、セックスしたいのでしょうと、言うと、彼は、唖然として、ああっ、そうか、とばかりに、納得した。

そういうことである。
単純なことだった。

恋愛とは、聞こえがいいが、セックスがしたいと、解れば、利巧である。
要するに、賢い。
それが、精神的なもの、云々となると、こんがらかるのである。

もし、現実というものもがあるならば、それは、恋愛においては、セックスなのである。
だから、それを明確にすれば、いい。

ただし、人は、夢を見たい生き物である。
だから、フィクションを作り上げる。
それで、生きてゆけるのである。

つまり、幻想の世界である。
幻想の世界以外に、人が生きるべき、世界は無い。

現実、現実が、という解説をしている、岸田氏は、矢張り、心理学者なのである。
それが、生業なのである。

私は、素人であるから、また、何とでも言う。

悪い冗談のような、人生を生きるには、それなりの夢、フィクションが必要であることは、人類の歴史を俯瞰すれば、一目瞭然である。

その、フィクションが、豊かであれば、あるほど、人生が、豊かになる。

大人は、子供に、夢を持てと言うが・・・
本当に、そのまま、人生は、夢の中なのである。
そして、それを知ることが、悟り、という。

それ以外に、悟りなど、あろうはずがない。