岸田
これが、最も、大切なところである。
これこそ、人間が生きるという、基本である。
幻想我を、生身の人間ではないものと、同一視させる。
だから、生きられる。
現実も、幻想なのであるから、当然、幻想の我を、同一視するのは、人間ではなく、哲学、思想、その他諸々の方が、良いに決まっている。
これ以上に、言う必要はない。
だが・・・
面白いので、岸田氏の、論調を紹介する。
ただ、流れ聞く程度であるが・・・
幻想我を投影した方は、むしろ相手のために貢献しているつもりだが、投影された方は、そこにつけこんで利用する気でもないかぎり、迷惑この上ない。
おとななら、適当にあしらって放っておくことができるが、たとえば、よくあることだが、親が子どもに幻想我を投影した場合、子どもは親に全面的に依存しているので、そうもできず、自分に投影された親の幻想我に何とか合わせようと無理な努力を強いられる破目になる。
その結果、自己疎外が生じ、末は精神病者、神経症者、犯罪者、あるいは少なくとも不適応者になることは必定である。
岸田 改行は私
上記、とても、怖いことである。
最初の、親子関係から、人生の大半の生き方が、決まる。
子供にとっては、やってられない、状況である。
精神病、神経症、犯罪者である。
そして、人間の大半の、問題、悩みが、これである。
人に迷惑をかけたくなければ、何らかの抽象的存在を選んだ方がよい。神でも、何らかの主義、理想、理念でもよい。
岸田
まさに、その通り。
そして、そのようになる。
見回してみると・・・
左翼、右翼、革新、保守・・・
極左、極右、革命的・・・
皆々、その中で、一生懸命にやっている。
それが、生きることなのだ。
果たして、それに意味があるのか、無いのかは、関係ない。
それでしか、生きられないのである。
人は、生きるようにしか、生きられない。
その、生き方に、先祖の因縁や、遺伝、その他、諸々と、付け加えて、何事か、解ったように、思う。
それで、いい。
イデオロギーの歴史は、ある意味で、幻想我の集団的投影の歴史である。
岸田
その通りである。
だから、生きられたのである。
そして、フィクションである。
すべて、フィクションだった。
つまり、幻想、妄想である。
しかし・・・
悲劇がある。
オーストラリアの原住民、アボリジニは、現在の自分たちの、人生は、先祖の夢が実現していると、考える。
が、しかし、彼らは、現在、200年に渡る、野蛮な白人たちにより、虐殺につぐ、虐殺を受け、更に、親子が引き離され、あろうことか、キリスト教の教えを強制されて、民族の生き方そのものを、変更させられた。
現在は、何とか、生きているが、多くは、アル中、糖尿病になり、死ぬ。
イギリス人の、食生活を強いられたせいで、紅茶に砂糖であるから・・・
民族の、幻想さえ、生きられなかった。
人種差別という、悲惨な思想によって、である。
ある程度成長すると、その自分たちの状況を知り、絶望する。
仕事も無い。
することがないのである。
政府が、最低の生活を保証するだけ。
その行為に対して、オーストラリア政府の首相が、謝罪したのは、ほんの10年ほど前のことである。
あれほどのことをして、やっとの、謝罪である。
しかし、もう、後に戻すことは出来ない。
これが、一つの、例である。
アボリジニが、絶滅した島もあるほどだ。
動物と、同じように、殺されたのである。
幻想我さえ、生きられなかった、原住民である。
勿論、アメリカのインデアンも同じく。
更に、南米の民族、一億人も、スペインなどにより、虐殺された。
勿論、おなじみ、野蛮な、キリスト教白人主義である。