日々の言い分110

今から、10年以上前、作詞をよくした。
それは、カウンターテナー藤岡宜男の、プロデューサーをしていた頃である。

クラシック音楽からの、脱皮を考えていた、藤岡に歌ってもらいたいと、勝手に、作詞していた。

中には、曲がついて、藤岡も歌い、今も、数名の人たちに歌われているものもある。

藤岡宜男は、今年で没後、12年を迎える。
突然の、事故にて、他界した。
その、悲しみは、余りある。

だが、もう、それを書くことはしない。
詮無いことだと、思う。
そして、私も必ず死ぬ身である。
私の救いは、死ぬことである。

さて、その作詞だが・・・
ブログに掲載したものを、印刷していた。
それが、幸いして、今、手元にある。
もし、印刷していなければ、失っていた可能性がある。

私は、ほとんど、未練がない。
書いたものも、そのまま、消滅していいと、思っている。
何せ、生きることは、死ぬまでの、暇つぶしであると、心得ている。

手元にある作詞は、曲がついたもの、つかないもの、多数。
その中で、春に関した、作詞の一つである。

キレンジャクという、春の鳥の歌だ。

この鳥は、春に日本過ごし、夏になると、春を置いて、北へ旅立つ。

春告げ鳥のキレンジャク
ヒリヒリヒリ チリチリチリ
その声を聞かずに
君は旅立った
二度と戻らぬ天上へ

春告げ鳥のキレンジャク
ヒリヒリヒリ チリチリチリ
その声を独りで聞く
身の悲しさは
身を切る思いの切なさよ

春告げ鳥のキレンジャク
ヒリヒリヒリ チリチリチリ
その声は優しく
愛しい(かなしい)君に似た
天上の声のぼり立つ

ここに、こうして書いておく。
もしかしたら・・・
残されるかもしれない。

昔々、私は、小説を書いていた。
そして、10年ほど書いて、気づいた。
小説を書く体力がないと・・・

それを、仕事にするのは、無理だと。

そうして、別な原稿を書いていた。
読み捨てにされるものである。
それで、良かった。
何も、残す必要のない人生である。

過去のもの・・・
大半を捨てた。
時々、そうして、捨てる。

だが、私は、物を大切にする。
それは、物に生かされて、生きているからだ。
その恩に報いるには、物を生かすことである。

基本的に、演歌が好きなので、作詞も、その調子になる。
それで、いい。

有名になる、作詞家を目指すのではない。

手慰み・・・
マスターベーションである。

思えば、よくぞ、延々と書き続けてきたものである。

延々と・・・書く・・・
それが、生きることだとは、いつ、この頃、気づいた。

歴史小説は、二冊、自費出版してみた。
出来た時は、嬉しいと思ったが・・・
そのうちに、別に、何とも思わなくなった。

一人の有名な作家の裏には、一万人、いや、二万人、三万人の、売れない作家がいるだろうと、思う。

何事の世界も、そうだ。
売れる芸人の裏には、何万人の、売れない芸人がいるだろう。

人生とは、そういうもので・・・
何の文句もない。

好きな歌手の歌を聞いて、ああ、これは、私だと、考えるのである。
それで、十分に幸せを感じる。

それで、十分に生きた。
誰もが、皆々、精一杯に生きている。

この、地獄という、世の中で・・・
それが、また、いい。

いずれ、死ぬからだ。