踊れ歌えやピリピノ・ウェディング 1    (文責;コータ)

                                      

 ものを書くという作業は、脳に大きな負担をかける。脳の疲れは全ての疲れの原因、といわれる位で、決して生やさしいものではない。

 それを分かっているのなら、書かない方がいい。それではなぜ書くか。伝えたいことがあるからである。伝えたいことがないなら、書くこともない。

 松尾芭蕉は、同行者の曾良に、ときおり句を詠むことを託した。有名な奥の細道の松島の下りは、あまりの松島の美しさにいわば戦意喪失した芭蕉が、曾良をして句を詠ませたことになっている。

 その故事になぞらえるのはたいへんにおこがましい事だけれど、今回の旅日記の書き手は、木村天山ではない。追悼慰霊・国際支援を掲げて60有余の旅をともにした「テラの会」事務局長の手による。

 事務局長といえば横文字にするとセクレタリー・ジェネラル、きこえはいいが、要するに他にひとがいなかったのである。

 とくだん自己紹介するような何者でもないけれど、曾良のように、シンプルに、コータと自らを呼ばせていただく。そのコータが、何を伝えたいのか。それはフィリピンのネグロス島の結婚式に参加したてん末だ。

 ことは一通のメールからはじまった。

「わたしたち、結婚するの! テンとコータを招待するから、ぜひ来て欲しい」

 テンとは木村天山のこと。送り主はエイシャさんという。「テラの会」の活動を通して知り合ったフィリピン人の女性である。スティービー・ワンダーの“可愛いアイシャ”という曲を知る人もいるかもしれない。その中でうたわれる“Asia”(娘の名だというけれど)、と同じ綴りを持つ。

 エイシャさんとの出会いは、2011年にさかのぼる。

 ネグロス島が太平洋戦争の激戦地の一つであり、かつて日本軍が進駐していた事から、慰霊のためテラの会は渡航を計画した。

 いちどは、失敗した。というのは、日本軍の進駐していたバコロド市への行き方が分からず、間違って島の南端の、ドゥマゲッティ市へ飛んでしまったのである。

 痛恨の極みであった。ネグロス、という島の名前は知っていたけれど、そこがどんな島で、どんな街があるかまで、分かっていなかった。その位に情報が少なかった。今から思えばまことに失礼な話だけれど、ネグロスといえばバナナ、幼い頃にテレビで見た、貧困に苦しむネグロスの人々、というイメージしかなかった。

 それもそのはず、記憶に残っているネグロスの映像は、じっさいに年表で確認してみると、1984年頃の、「飢餓の島」として世界的注目を浴びた頃のものらしい。1985年にはユニセフ(国連児童基金)が西ネグロス州で緊急事態宣言。政府軍がデモ隊に発砲、「エスカランテ虐殺事件」が発生した頃に当たる。

 その飢餓は、砂糖価格の世界的な下落からはじまった。大地主が破産し、砂糖きび栽培でその日暮らしをしていた人々は、いきなり収入源を失ったのである。しかも悪いことに、島のほとんどがプランテーションであったために食糧自給率が低かった。他島からの輸入に頼っていた食糧事情のために、現金が無くなると即、飢えにつながったのである。

 あまりここでは深入りしないでおこう。なぜならこのレポートは祝福に満ちたものだから。

(つづく)