記憶という現象は、われわれ人間の意識の過去性と関係がある。われわれは生まれてこのかた「時」というものを、一度もじかにつかんだことはないのである。時というものは、初対面でわれわれを訪れる。そうしてわれわれが気が付きなじみかけたときにはもういない客のようなものである。われわれは時がある、というより、もうないというかたちで、いわば過去的に背中から時をとらえるのである。
小原
時、というものを、直につかんだことはない・・・
それでも、時間に生きていると、信じている。
つまり、時間信仰である。
心理学的な記述がある。
記憶には意識的なものと無意識的なものがある。社会生活をいとなむ必要上、物事の手順をわきまえ、対人関係に失礼のないように、そのつど需要に応じて構成しなおす記憶がある。
だが他方、直接の実用性をもたず、生活上必要ないように見えるのだが、何となく記憶していることがある。これはとくべつ意識していないのであるから、記憶は忘却の底に沈んでしまう。だが、ふっとしたはずみで、きっかけさえあれば、忘れていたつもりのことが思わずよみがえってくる。
この「私」がいつ、どこで、なにをしたか、そうしてそれをしたときどんな気がしたか、などが形と意味をともなってありありと思い出されるてくるのである。
小原 改行は私
記憶と忘却、である。
実は、記憶も忘却、同じものなのである。
忘れられない、思い出というものを、人間は、持つようだが・・・
また、忘却の彼方へと、忘却することもある。
心理的に、そのように、なることも、多々ある。
思い出は思い出すことも忘れることもできるのである。「思い出は忘れることができる」と言ったのはリルケであり、「忘却の記憶」と言ったのはアウグスチヌスであった。
リルケは思い出を、内化するということ、つまり内部に内化もしくは変身することを忘却という。ゆえに内化されたものはリルケにおいては、もはや表象ではなく、心象として永遠に記憶されてゆく。「詩」は思い出の忘却のなかから、ふと自発的で無意識的な記憶としてあらわれてくるものなのだ。
小原 改行は私
人間は、そのようである。
誰もが、そのようである。
そして、人生は、思い出に尽きるものである。
人生とは、何か・・・
それは、思い出、であると言う。
そして、思い出は、失ったものではなく、無いものである。
過去、現在、未来も、然り。
それらは、無い、ものである。
その、無い、ものの中で、生きているのが、人間という。
「詩」は思い出の忘却の中から、自発的で無意識的な記憶として・・・
芸術家の得意技である。
それは、通常の場合は、狂いである。
狂いが、芸術として、認められる。
「詩」というものは、言葉である。
「詩」ではなく、言葉として、考えると、言葉は、記憶のイメージである。
それでは、どんな言葉にも、芸術性が宿る。
だが、すべての詩人が、優れた「詩」を書くわけではない。
その時代性と、時代精神により、受け入れられる。
忘却という、作業が出来るのは、認知症ではなく、通常の精神の持ち主にある。忘却も、一つの遊びだからだ。
死ぬまでの、暇つぶしの、遊びが、忘却という、作業である。
死ぬまでの、暇つぶしは、いくらでも存在する。
それで、いい。
記憶と忘却はわれわれの意識のなかの双生児ーーー楕円の二つの焦点のようなものである。忘れたと言って悲しむ人は、ほんとうに忘れてしまってなどいない。ほんとうに忘れている人は、忘れていることにさえ気づかずにのんきにしている。・・・
小原
言葉遊びである。
本当に、忘れた人は、忘れていることにさえ、気づかぬ・・・
そして、人生とは、そのようなものである。
忘れていることにさえ、気づかぬのである。
だから、生きられる。
あの当時のことを、思い出すと、怒りが、燃えてくる・・・
と、いう人もいるが・・・
それは、精神に、傷を受けたから・・・
何か、プライドが傷つけられたから・・・
色々ある。
だが、もう、それは無いのである。
認知症の人が、幸せなのは、良いことも、悪いことも、忘れる。
それが、人間の、最良の姿であると、言う。
多くの人は、認知症に極めて近い、精神状態を持つ。
認知症を、気の毒だとは、言ってられないのだ。
10年前の、ある日の、一日のことを、すべて覚えている人が、いるだろうか・・・
その、何かの物事、事件だけである、覚えているのは。
すべて、忘れている。
それで、いいのだ。
10年前のある日の、朝昼夜の、食べたものを、覚えている人ないど、いないのである。
そして、人生とは、そんなものなのである。