ここで、一息ついて、少し寄り道する。
フロイトは、無意識の世界には、時間が存在しないことを、発見した。
そして、また、幼児期のある期間を、人は思い出せない。
つまり、裸でいることを、恥ずかしいと思わない時期の、時間はない。
どういうことか・・・
つまり、抑圧を知らない時期に、時間はないのである。
抑圧を知ることにより、時間という観念が生きてくる。
無意識に、時間が存在しない。
つまり、過去、現在、未来も、一緒くたに存在するのである。
意識が、それを区分けしている。
だから、無意識を生きれば、適応障害とされる。
そして、勿論、無意識を解放してしまうと、狂うのである。
仏教の一派では、その無意識の底に、仏とつながる意識があると、説く。
ユングの、集合意識と考えてもいい。
単なる、表面意識で、何事かを、考えても、本当は、詮無いことなのである。
だが、今のところ、いや、これからも、人間は、表面意識によって、生きるだろう。
また、無意識は、心とつながる。
精神は、脳とつながる。
表面意識は、精神、つまり、脳とつながる。
私が言う、心、とは、体を通して、感じている意識を言う。
体は、心だとも、言える。
心理学では、精神と心を同じく、捉えているようだが・・・
心療内科という、分野があるが、あれは、精神内科ということである。
心身医学という言葉もあるが・・・
まさに、身心医学とは、心と体が結びついていることを言う。
人間を、裏から生かしている、無意識に時間が無いとは、どういうことか。
抑圧がないからである。
つまり、時間という観念は、抑圧によって、生まれたものである。
その抑圧とは、実現出来なかった、悔やみの精神、意識が、そうさせる。
現在は、過去からの流れであるが、それも、観念である。
そして、流れてゆくと、思われる、未来も、観念である。
この、観念まみれが、哲学、思想となる。
あるいは、宗教である。
過去が、悪いから、現在を良くする、とか、現在を乗り越えて、未来を良くするとか・・・
どのように、考えてもいいが、おおよそ、人は、哲学、思想、宗教に、騙される。勿論、騙されていると、感じずに、騙されている。
何せ、騙されれば、安心を得られるのだ。
そして、ついに、人間は、時間まで信仰してしまったという、ことで、小原氏が、警告を発している。
だが、それも、哲学である。
哲学を、戯言とは、言わないが・・・
哲学は、矢張り、哲学如きである。
何度も言うが・・・
意味付けである。
何かに、意味を見出すという、人間の得意技は、単に、抑圧から、生まれたものと、言える。
その、抑圧については、心理学で、特に専門的に学ぶ。
そして、人間の精神の在り方を、説く。
私は、素人である。
だから、何とでも、言える。
本当は、時間が無い、意識、無意識を、生きている、人間である。
つまり、本来は、無かったものを、あるかの如くに、生きる。
実に、哀れである。
勿論、いずれ、また、心理学での、時間と抑圧についても、書くことになる。
今は、無意識に無い、時間という観念についてだけ、書く。
今日、明日、昨日という、観念の無い時期がある。
幼児期である。
そして、そのままにしておくと、時間は存在しないのであるが・・・
余計な、知恵をつけてしまったのである。
生きるために・・・
刻々と、時間が過ぎる、という、悪い観念を抱いて、生きている。
もし、時間の観念がなければ・・・
どんなに楽なことか。
いや、もう無理である。
一度、時間の観念に入った者は、そこから、抜けることが出来ない。
時間を知るということは、地獄を知ることである。
ブッダが観た、人生の、苦しみは、生老病死だった。
つまり、時間の経過だった。
生まれて、老いて、病になって、死ぬ。
短くすると、生まれて、死ぬ。
私が言いたいことは、これである。
生まれて、死ぬ。
それだけが、確実な、人間の証明なのである。
その他のことは、夢のまた夢、なのである。