生きるに意味などない87

小原信氏の、現代人の時間信仰、という論説を見ているが・・・

ここで、一息ついて、少し寄り道する。

フロイトは、無意識の世界には、時間が存在しないことを、発見した。
そして、また、幼児期のある期間を、人は思い出せない。

つまり、裸でいることを、恥ずかしいと思わない時期の、時間はない。
どういうことか・・・
つまり、抑圧を知らない時期に、時間はないのである。

抑圧を知ることにより、時間という観念が生きてくる。

無意識に、時間が存在しない。
つまり、過去、現在、未来も、一緒くたに存在するのである。

意識が、それを区分けしている。
だから、無意識を生きれば、適応障害とされる。

そして、勿論、無意識を解放してしまうと、狂うのである。

仏教の一派では、その無意識の底に、仏とつながる意識があると、説く。
ユングの、集合意識と考えてもいい。

単なる、表面意識で、何事かを、考えても、本当は、詮無いことなのである。
だが、今のところ、いや、これからも、人間は、表面意識によって、生きるだろう。

また、無意識は、心とつながる。
精神は、脳とつながる。

表面意識は、精神、つまり、脳とつながる。

私が言う、心、とは、体を通して、感じている意識を言う。
体は、心だとも、言える。

心理学では、精神と心を同じく、捉えているようだが・・・

心療内科という、分野があるが、あれは、精神内科ということである。
心身医学という言葉もあるが・・・

まさに、身心医学とは、心と体が結びついていることを言う。

人間を、裏から生かしている、無意識に時間が無いとは、どういうことか。
抑圧がないからである。

つまり、時間という観念は、抑圧によって、生まれたものである。
その抑圧とは、実現出来なかった、悔やみの精神、意識が、そうさせる。

現在は、過去からの流れであるが、それも、観念である。
そして、流れてゆくと、思われる、未来も、観念である。

この、観念まみれが、哲学、思想となる。
あるいは、宗教である。

過去が、悪いから、現在を良くする、とか、現在を乗り越えて、未来を良くするとか・・・

どのように、考えてもいいが、おおよそ、人は、哲学、思想、宗教に、騙される。勿論、騙されていると、感じずに、騙されている。
何せ、騙されれば、安心を得られるのだ。

そして、ついに、人間は、時間まで信仰してしまったという、ことで、小原氏が、警告を発している。
だが、それも、哲学である。

哲学を、戯言とは、言わないが・・・
哲学は、矢張り、哲学如きである。

何度も言うが・・・
意味付けである。

何かに、意味を見出すという、人間の得意技は、単に、抑圧から、生まれたものと、言える。
その、抑圧については、心理学で、特に専門的に学ぶ。
そして、人間の精神の在り方を、説く。

私は、素人である。
だから、何とでも、言える。

本当は、時間が無い、意識、無意識を、生きている、人間である。
つまり、本来は、無かったものを、あるかの如くに、生きる。

実に、哀れである。

勿論、いずれ、また、心理学での、時間と抑圧についても、書くことになる。

今は、無意識に無い、時間という観念についてだけ、書く。

今日、明日、昨日という、観念の無い時期がある。
幼児期である。
そして、そのままにしておくと、時間は存在しないのであるが・・・

余計な、知恵をつけてしまったのである。
生きるために・・・

刻々と、時間が過ぎる、という、悪い観念を抱いて、生きている。
もし、時間の観念がなければ・・・
どんなに楽なことか。

いや、もう無理である。
一度、時間の観念に入った者は、そこから、抜けることが出来ない。
時間を知るということは、地獄を知ることである。

ブッダが観た、人生の、苦しみは、生老病死だった。
つまり、時間の経過だった。

生まれて、老いて、病になって、死ぬ。
短くすると、生まれて、死ぬ。

私が言いたいことは、これである。
生まれて、死ぬ。
それだけが、確実な、人間の証明なのである。

その他のことは、夢のまた夢、なのである。