特に、残念なこと・・・
悔しいこと・・・
勿論、楽しいこともあるが・・・
記憶という現象は、われわれ人間の意識の過去性と関係がある。われわれは生まれてこのかた「時」というものを、一度もじかにつかんだことはないのである。時というものは、初対面でわれわれを訪れる。そうしてわれわれが気づきなじみかけたときにはもういない客のようなものである。われわれは時がある、というより、もうないというかたちで、いわば過去的に背中から時をとらえるのである。
小原 信
何も、そんな言い方をする必要もないと、思うが・・・
記憶という、現象とは、何か。
記憶が現象なのか・・・
意識した瞬間にそれはもういない。われわれにとって幼年時代がいつもはるかなのは、幼年を意識するのが幼年以降の時期においてであるからなのだ。「失われた時」ということばはこの意味においてまぎわらしい。ほんとうは、失われてなんかいない。失われたと言って嘆く人は、じつは、失われたと思っている時間を自分のなかに、ふつうの人以上に豊かにもっている人である。・・・
小原
実は、失われることによって、その時間、時というものを、強烈に意識するのである。
失われないものは、たいしたことは、ない。
失われるから、こそ、人間は、強く拘り、強く意識するのである。
何せ、日々の生活を見まわして見るが、いい。
大半が、在って当たり前なのである。
しかし、失われると、意識する。
そういう、存在が人間なのである。
普段何でもないモノでも、失われると、惜しむ。
実に、愚かな、人間というものである。
小原氏は、失われてなんか、いないと、言うが・・・
実は、失われているのである。
人間は、記憶に生きるのか・・・
もし、そうだとすると、実に、馬鹿馬鹿しい人生である。
しかし、その様子である。
馬鹿馬鹿しいのである。
日本人は、それを、あはれになつかしい、と、表現した。
実際は、もののあはれに、なつかしい、のである。
それだけ。
ただ、それだけである。
そこから、延々と、言葉をつなげることはなかった。
それを、センチメンタルというが・・・
感傷的である。
情けない。
記憶から、感傷的になるとは・・・
つまり、懐かしいと同じ。
勿論、懐かしいという、気持ちは、否定しない。
私が言うのは、それに、意味付けする時である。
堕落する。
過ぎ去ったことで、時間、時を意識する、人間という、愚かな者。
小原氏が、
記憶には「記憶」の記憶と「忘却」の記憶とがあって、両者は云々ということは、われわれがふつう「無」について論じる場合のことを考えて了解すればよい。There is noting とは、何もない、ということであるが、無がある、とも訳せる。われわれは無がほんとうに無なら、無が何であるかを知らないはずである。しかるに、われわれは(日常のレベルにおいて)無が何であるかを(ある程度)わかったつもりで、無について論じる。ゆえに、もし無が何かがわかるなら、それは無ではなくて何かではないのか。かくして無は無でありつつも無ではないということになる。変だけれど、そうとしか言いようがないのだ。
小原
言いようが、無い。
それでも、言うとは・・・
呆れる。
つまり、それも、これも、意味付けの行為なのである。
無についてなどは、あの、禅という、愚昧な世界で、懲り懲りしている。
無について、語り尽くすという行為は、狂っている。
更に、日本の場合は、それが、中国大陸から入り、老荘思想により、解釈された、無の思想である。
つまり、老荘思想なのであり、仏教の思想ではない。
それでも、禅という、仏教に属する、宗派が、延々として、無を語るという、愚昧である。
別エッセイ、神仏は妄想である、を参照ください。
さて、忘却も、記憶なのである。
だから、忘却というのである。
もし、全く、存在しなければ、忘却もない。
記憶には「記憶」の記憶と「忘却」の記憶とがあって・・・
こうして、意味付けをしなければ、話が出来ない、病と、言っておく。
心理学では、忘れる行為を、肯定して、何やら、意味付けを行う。
記憶から消去したいものは、忘れると・・・
ここで、一度、結論を言う。
つまり、人間は、記憶によって、生きているということである。
記憶がなけれは、生きられないのである。
悲しい存在である。
本当は、記憶喪失によって、生きるのが、最善の道なのかも、しれないのである。
何故か・・・
生きるに意味などない、からである。