小原 信
ここでは、時の再生、という、副題がついている。
こうして、解ったようなことを、延々と書くというのが、哲学である。
要するに、思い出は、様々で、複雑に絡み合ったものなのである。
だが、もう、時間は、戻らない。
だから、思い出す行為とは・・・
なぜ思い出すのか。どう思い出すか。ここで考えておきたいのは、「忘れる」ということの意味するところである。フロイトも指摘したように、われわれはただ何の理由もなく忘れるのではない。単語ひとつ、相手の名前ひとつにしても、無意識のうちに、何か自分がふれたくないこと、考えないでいたいことがあると、われわれは忘れてしまう。忘れるには忘れるだけの理由がある。ふだんの生活のなかでの物忘れから、過去の大きな出来事についての不確かさにいたるまで、われわれはいちがいに自分の頭がわるいと決めつける必要はないのである。
小原
実際は、どうでも、いいことである。
忘れる、理由・・・
そんなことに、一々反応する必要はない。
忘れたいことは、忘れる。
そして、別段、意味あるものでもない。
ただし、精神分析などに言わせると、それが、問題になる。
忘れていたことによる、記憶を思い出すことによって、何らかの、神経症を治療するというのである。
その、思い出の意味付けである。
それが、無意識という世界に、眠っているというもの。
それを、とことん、思い出して、現在の神経症の、治療の手探りをする。
そして、治った・・・
治るものか・・・
私は言う。
結局、そんなもので、神経症になるほど、新しい時間を、生きていないのである。
つまり、神経症を直しても、新しい時間を生きる、感動がなければ、また、神経症になる。
そして、それを繰り返すのが、落ち。
小原氏は、過去を再生し、その時の、状況を総合的に判断して、人間的に、再解釈することが、肝要だと、言う。
哲学が、心理学になってしまった。
再解釈こそ、心理学の得意分野である。
その再解釈によって、神経症を治すのである。
つまりわれわれがとりもどせる過去は、過去そのものではない。過去には呼びもどしたくないから忘れていた(つもりの)過去もあれば、いつでもひき出してそばにおいておきたい過去もある。
小原
そして、再生された過去は、元の過去とは、違う。
そんな、作業をして、生きている人間なのか・・・
まるで、牛が草を、反芻して、食べているようなものである。
記憶を反芻して、再生し、新しく解釈して、生きている。
そう、自分の都合良いように、である。
記憶の、意味付けを言う。
こうして、人間は、記憶に対しても、意味付けを行う、動物なのである。
実に、不便な存在である。
更に、存在すると信じる、時間というものを、超越することもない。
キルケゴールの言う「反復」は自然の必然的な繰り返しではなく、また倫理的現象としての習慣でもない。むしろ日常の生活のなかの埋没から「自己をとりもどす」ことであり、精神の規定として宗教的なカテゴリーに属する。
小原
これが曲者である。
自己を取り戻すこと・・・
幻想の、あるいは、妄想の自己を、取り戻すことなのか・・・
時間の感覚を、過去から、現在、未来と、考える人間の、癖である。
無意識には、時間の感覚がないと、書いた。
勿論、無意識のままに、生きると、狂う。
狂わずに、生きているのは、無意識に生きていないのである。
限られた、意識の内で、生きることが出来る。
人間は、そういう存在である。
だから、余計なことを、考えることなく、限られた意識の中で、生きていればいいのである。
過去ばかり見ていると、ネガティブになるから、未来を見て、ポジティブに生きるというようなことを言う、アホもいるが・・・
それは、過去、現在、未来という、観念によるのである。
無意識に生きられない存在は、限られた意識で、生きる。
そこに、ネガティブも、ポジティブも、無い。
ただ、限られた意識のみである。
だから、変な、意味付けをする必要はない。
時間を信仰している、人間の様を、もう少し見る。