つまり、時間に、騙されるのである。
だから、また、それに意味付けするのである。
ゆえにたとえ同じことをもう一度くり返すように見えても、厳密には同じ過去を再現しているのではない。われわれは同じに見えつつ、じつはかつてとは違ったやり方で新しく時を再生しているのである。新しい時間がそこにあるのだ!かくしてここではニーチェのいわゆる「永劫回帰」は否定される。「同じことの繰り返し」は、同じに見える違ったものの生成をさすと見うるからである。同じむなしいものの繰り返しから、同じに見える新しいものの到来ーーーこれは過去の再生というかたちをとりつつも、時間の新しい創造となるのである。
小原
何か、威勢の良い、成功哲学のような、言い分である。
面白いのは、
新生とは二千年の歴史を飛び越してイエスとの同時性に生きることである。
小原
と、言う。
これは、説教である。
キリスト教の、言いぐさである。
イエスと共に、生きる・・・
嘘である。
そんな芸当は、出来ない。
出来る訳が無い。
しかし、信仰すると、出来ると、信じる。
だから、騙される。
二千年前のイエスと、共に、生きる・・・
これが、手である。
こうして、意味付けして、辛うじて、生きているのが、人間である。
時間を超越して・・・云々・・・
そんなことが、出来るはずもない。
夢を見ている。
過去の時間を、再生して、新しい意味付けして、生きている。
そう、確かに・・・
人間は、過去の記憶に、意味をつけて、生きる。
実に、空しい行為である。
ただ今を、生きられないのである。
人生は、思い出である。
その通りだが・・・
それは、物故に近くなった、老いぼれた、老人の、せめてもの救いなのである。
人間の救いは、思い出なのである。
だが、そこに、生きられなくなったからの、思い出である。
思い出に、浸る・・・
とても、惨めな、行為である。
現在が、思うように、生きられない。あるいは、年老いてしまったがための、最後の抵抗である。
無理である。
人間は、黙っていても、死ぬ。
だから、今を、ただ受け入れて、生きるしかないのである。
そして、その、現実というものは、地獄である。
それを、自覚しないようにするために、色々と、意味付けしている。
そして、人生の、生きる意味・・・などと、戯れを行う。
われわれはパンがあっても、時間がなければ生きられない。われわれはふつう未来が自分にはあるものと思い込んで生きている。だが、未来がほんとうにあるということはもちろん保証されてはいない。ただ、未来はある、われわれがそう思いたいだけなのだ。いま人生に問題を感じて苦しみつつ、時が解決してくれようと考える人は、時間はなくて困る、ぜひあってほしい何かとしてあるにすぎない。
小原
その通り。
床に就き、明日の朝は、目覚めないかもしれないのである。
つまり、死んでいる。
自分の死は、見えない。
人の死は、見える。
ただ、その現実を、生きている。
小原氏は、明日への期待を、時間信仰と呼ぶ。
最もである。
人は、時間を信じて生きるのである。
何も、信じない人でも、時間を信じる。
使えないほどの金を持っても、明日はないと、考えない。
確実に、死ぬ人間であるが・・・
だから、せめてもと、子孫に託す。
子孫は、自分の分身となる。
哀れである。
その大切な金を、子孫は、おおざっぱに使い果たす可能性がある。
人々が未来をあてにするのは、彼らに執着すべき過去がないからである。彼らは時がながれ去ることをいとおしみつつも、やはりどこかでさらりと過去をすててゆく。さらとりと捨ててくるりと変わるのが歴史をすてる現代人のエートスである。だが、過去をすて過去から自由に生きるとは、自分にはまだまだ未来に多くの可能性のあること、つまり過去にみあうだけの未来があるというあてがなれけばできないことなのだ。
小原
可能性・・・夢である。
人は、生まれて、老いて、病になり、死ぬ。
ブッダではないが・・・
それが、人間の、定め。
変えられない、定めである。