持続しないものは、成功とは、いえない。
私は、追悼慰霊と、支援活動を始めて、11年を経る。
この、二年ほどは、海外に出掛けていない。
色々な、状況がある。
だが、その心は、何の変わりもない。
つまり、続けている。
また、整えば、活動を開始する。
色々な人がいる。
最初は、威勢がよいが、次第に、疲れるのか、飽きるのか、怠慢になる。そして、結果的には、持続しない。
例えば、支援活動、ボランティアは、一度、二度ならば、出来る。
しかし、延々と続く活動を続ける人は、少ない。
勿論、それが、仕事の人もいる。
支援活動でも、給与を得ている。
つまり、お金を得ての活動である。
それも、否定しない。
それで、続けることが、出来るならば、幸いである。
私も、私の活動に関して、最初は、協力してくれた人の中にも、途中で、止めた人も多々いる。
それは、それで、いい。
私の活動を、多くの人が、知るべきだとの、意で、何事かを始めた人。
支援を支えた人たち。
だが、続かない人も多いのが、現実である。
そして、それは、私の問題ではない。
その人の、問題である。
続けることが、出来なくなった。
あるいは、別の事に、興味が向いた。
それで、いい。
さて、成功哲学なる言葉が、流行った時期がある。
その内容は、すべて、金儲けのことだった。
金を儲けることが、成功だとの、お話しである。
そして、時代は、そのように進んだ。
今も、それが、続いている。
金儲けを推奨する、哲学・・・
それは、どんなものでも、生活の豊かさと、自由な時間を保証するというものだ。
更に、好きなことをする。
そのような、生活、人生のために・・・
会員を募る。
持続すれば、成功である。
そして、成功は、金を得ること。
それで、いい。
私が言うのは、私が決めたことを、続けられるか、が、問題なのである。
つまり、私は、私を信じられるのか、である。
自分が決めたことを、実行できなければ、私を信じられない。
続け事・・・
それが、私が、私を信じる、一番の道である。
更に、私が、決めたことは、私の責任であり、他人が介入することではない。だから、それが、大問題なのだ。
自分を信じられなければ、自分を裏切ることになる。
だが、その自分を信じて、騙されることもある。
自分が、自分を騙すのである。
私が、私自身を、律するという、次元が出てくる。
これは、実に、難しいことだ。
何せ、他人が介入しないのである。
途中で止めても、何も問題がない。
ただ、私が、虚しくなるだけである。
私は、すべての人生の事、死ぬまでの、暇つぶしと心得ている。
要するに、暇を潰すために、何をするのか、である。
ただ、それだけのことで、四苦八苦なのである。
どうせ死ぬ・・・
だから、それまでの、間、何をして、暇をつぶすのか。
それが、続けられることなのか。
それが、問題なのである。
ある人が、或る目的で、ある事を、行った。
しかし、それが、上手く進まず、止めた。
誰も、批判もしない。
それは、その人だけの、問題なのである。
そういう人を、多く見た。
勿論、私の批判などしない。
それは、その人自身に、かかってくることだ。
このようになるまで、私は、時間を要した。
何故なら、他人を批判することは、楽しい。
わが身を棚に上げて、他人を批判する。あるいは、非難する。
とても、気持ちが、いい。
だが、それも、終わったのである。
すべての人に、確実に、共通している、事実がある。
人は、死ぬ存在、である。
これだけは、確実であるから、何の問題もない。
私は、私の心の赴くままに、死ぬまでの、暇をつぶすのである。
別エッセイ、生きるに意味などない、を参照ください。