日々の言い分146

成功の、別名は、持続であると、私は、思っている。

持続しないものは、成功とは、いえない。

私は、追悼慰霊と、支援活動を始めて、11年を経る。
この、二年ほどは、海外に出掛けていない。
色々な、状況がある。

だが、その心は、何の変わりもない。
つまり、続けている。
また、整えば、活動を開始する。

色々な人がいる。
最初は、威勢がよいが、次第に、疲れるのか、飽きるのか、怠慢になる。そして、結果的には、持続しない。

例えば、支援活動、ボランティアは、一度、二度ならば、出来る。
しかし、延々と続く活動を続ける人は、少ない。

勿論、それが、仕事の人もいる。
支援活動でも、給与を得ている。
つまり、お金を得ての活動である。

それも、否定しない。
それで、続けることが、出来るならば、幸いである。

私も、私の活動に関して、最初は、協力してくれた人の中にも、途中で、止めた人も多々いる。
それは、それで、いい。

私の活動を、多くの人が、知るべきだとの、意で、何事かを始めた人。
支援を支えた人たち。

だが、続かない人も多いのが、現実である。

そして、それは、私の問題ではない。
その人の、問題である。

続けることが、出来なくなった。
あるいは、別の事に、興味が向いた。
それで、いい。

さて、成功哲学なる言葉が、流行った時期がある。
その内容は、すべて、金儲けのことだった。

金を儲けることが、成功だとの、お話しである。

そして、時代は、そのように進んだ。
今も、それが、続いている。

金儲けを推奨する、哲学・・・

それは、どんなものでも、生活の豊かさと、自由な時間を保証するというものだ。
更に、好きなことをする。
そのような、生活、人生のために・・・
会員を募る。

持続すれば、成功である。
そして、成功は、金を得ること。
それで、いい。

私が言うのは、私が決めたことを、続けられるか、が、問題なのである。
つまり、私は、私を信じられるのか、である。

自分が決めたことを、実行できなければ、私を信じられない。
続け事・・・
それが、私が、私を信じる、一番の道である。

更に、私が、決めたことは、私の責任であり、他人が介入することではない。だから、それが、大問題なのだ。

自分を信じられなければ、自分を裏切ることになる。
だが、その自分を信じて、騙されることもある。

自分が、自分を騙すのである。

私が、私自身を、律するという、次元が出てくる。

これは、実に、難しいことだ。
何せ、他人が介入しないのである。
途中で止めても、何も問題がない。

ただ、私が、虚しくなるだけである。
私は、すべての人生の事、死ぬまでの、暇つぶしと心得ている。

要するに、暇を潰すために、何をするのか、である。

ただ、それだけのことで、四苦八苦なのである。
どうせ死ぬ・・・
だから、それまでの、間、何をして、暇をつぶすのか。

それが、続けられることなのか。
それが、問題なのである。

ある人が、或る目的で、ある事を、行った。
しかし、それが、上手く進まず、止めた。
誰も、批判もしない。
それは、その人だけの、問題なのである。

そういう人を、多く見た。
勿論、私の批判などしない。

それは、その人自身に、かかってくることだ。

このようになるまで、私は、時間を要した。
何故なら、他人を批判することは、楽しい。
わが身を棚に上げて、他人を批判する。あるいは、非難する。

とても、気持ちが、いい。
だが、それも、終わったのである。

すべての人に、確実に、共通している、事実がある。
人は、死ぬ存在、である。

これだけは、確実であるから、何の問題もない。
私は、私の心の赴くままに、死ぬまでの、暇をつぶすのである。

別エッセイ、生きるに意味などない、を参照ください。