例えば、過去の大戦の、記憶を忘れる。
大東亜戦争である。
第二次大戦とも、言う。
今年は、その敗戦から、72年に当たる。
だが、忘れた。
その、犠牲者のことも・・・忘れた。
そして、その犠牲の上にある、ただ今の、繁栄を享受している。
あの時代が、今だったのかも、しれないのである。
こうして、意味付けする人生が、結局、何の役にも立っていないのである。
先の大戦については、別エッセイ、国を愛して何が悪い、天皇陛下について、玉砕、にて、書いている。参照ください。
戦争で死んだ者たちに対して、犬死したという、人もいる。
よくぞ、言えたものである。
ただ今、戦争が無いというだけである。
それが、いつまた、起こるかもしれない。
突然に・・・
北朝鮮からの、ミサイル避難訓練をしているのに・・・
実に、呆れる。
私に、生きるに意味があるならば、人にも生きる意味がある。
だが、私には、生きるに意味などない、のである。
だから、私は、先の大戦の、犠牲者を追悼慰霊することが出来る。
何故か・・・
ここに、私が存在しているのは、先の大戦による、死者のお陰だからである。
もし、戦わず、日本がアメリカの植民地になれば、私は、存在していなかったのかもしれない。
とは、誰も、考えない。
更に、今の、日本の平和も、享受していないのである。
実に、馬鹿馬鹿しいことに、そんな大切なことを、忘れる。
過去を忘れる・・・
つまり、未来があると、信じる。
今日、ただ今は、死ぬ運命にあることなど、知らぬのである。
明日、死ぬ。
確実に、人間は、死ぬと、自覚してみると、いい。
それが、戦争では、戦死となる。
あるいは、焼夷弾で、焼かれて死ぬ。
死に方である。
過去の否定は未来の肯定とバランスを保っている。過去をすてうるのは未来があると思うからである。未来をもたぬ老人は過去をすてない。だが、未来をたのんで未来に望みを託すと言っても、未来は早く来て欲しい好ましいものとかぎらない。むしろ、究極的な未来とは、私にとっては忌むべく恐るべきものである。死がわれわれの終着点だからである。
小原
その通りだ。
その、終着点を、戦時の人たちは、戦死とか、爆弾で、焼き殺された。
私は、何を言いたいのか・・・
自分のことだけは、特別と思う、人間の悲しさである。
戦争では、死なない。
だが、戦争ではなくても、死ぬ。
そして、過去の戦争で、日本のために、国のために、命を捨てた人がいたという、過去を忘れる、傲慢である。
自分のためには、生きるに意味があると、考える、バカな人たちである。
私が言いたいのは、それである。
自分のことだけなのである。
もし、生きるに意味があるとすれば、それは、すべての人に言えることである。私は、それを否定している。
だから、このような、傲慢なことを書いている。
誰一人も、生き続けて欲しい人など、いない。
しかし、戦争で死んだ人たちは、別である。
それは、大義に生きたからである。
大義・・・とは、何か・・・
大きな、義とは、何か・・・
そこにだけ、生きる意味がある。
わが身のために、生きる・・・
アホのような、考え方である。
人間の生きるに、意味があるとすれば、大義に生きるしかない。
戦争は、大義を与える。
それは、人間をはるかに超えた、祖国というものである。
祖国というものは、何か・・・
祖国を知らない人が多いのである。
更に、国というものを、知らない人が多い。
そして、国家というものも・・・
国民国家というものも・・・
知らないのである。
あるいは、それを否定する人たちもいる。
勿論、祖国も、国も、国家も、国民国家も、幻想である。
妄想である。
更に、国家とは、共同幻想である。
だが、生きるに、少しは、マシな幻想である。
自己の幻想により、少しはマシである。
自己の幻想は、吹けば飛ぶ。