生きるに意味などない92

ゆえに現代人は未来を考えるとは言っても、遠い未来のことを考えるのではない。むしろいつかは必ずやってくる各人の死を、人は遠いはるかな出来事であるかのように、なるべく接近した未来について、なるべく美化されて励みになる映像を設けて、それらの像をいわば人生の区切りとして、その区切りまでは当然生きられるものだとみなし、そのみなしに希望をつなぎつつ、精を出して生きてゆくのである。ひよっとして今夜死ぬかもしれないのにーーー
だから、パスカルは、こう諷刺する。
われわれは絶壁が見えないようにするために、
何か眼をさえぎるものを前方においたのち、
安心して絶壁のほうへ走っているのである。
小原

今夜、死ぬかもしれないのに・・・
これが、曲者である。

つまり、自分に都合よく、何事も、考えているということである。
それは、私に言わせると、幻想、妄想なのであるが・・・

現代人の時間信仰とは、近接未来につけた区切りに対するあてこみのことである。
小原

あてこみ、である。

単に、あてこんだ、だけのこと。
その、あてこみ、を、信じている。
つまり、あるであろう、時間のこと。

だがこのあてこみを現代では無神論者、唯物論者、アナキストもしている。すべてを否定し破壊し去ろうとする者が、こと時間に関するかぎりは、未来における社会変革の行われる時間のあることを否定しない。むしろ未来の時間をあてにしている。この意味において、おそらく時間信仰こそ、唯物主義者も精神主義者もふくめたすべての現代人がいまなおもちつづける強力な信仰だと言ってよいのだ。
小原

と、このように、時間信仰について、述べている。
誰もが・・・持つ、時間信仰である。

それで、私は、時間について、実は、何もわかっていない。
時間とは、何か・・・
それを、突き詰めた人、哲学者などがいるのだろうが・・・

一神教は、時間も、神が創造したものとして、考える。
ゆえに、神が存在しなければ、時間はない。

時間が、存在しなければ、それこそ、永遠という言葉が、出てくるだろうが・・・
この、永遠という言葉も、曲者である。

何故か・・・
一神教は、永遠の命、云々というのである。

神の元に行くと、永遠の命が与えられるという、極めて悪質な教えである。

初めがあれば、終わりがある。
終わりのないものは、無い。

ところが、仏教系、ヒンドゥー系では、循環である。
円相という。
終わりが無い。
つまり、それは、化け物である。

それを、悟と、菩薩とか、仏と言われる。
呆れる。

無いはずの未来を有化する現代人は宗教的である。
小原

これが、言いたいのである。
つまり、宗教を信じるように、時間を信仰する、人々・・・

それから、また、小原氏の、説教が続く。

その説教も、紹介して行くが・・・

結論から言えば、単に、人は、死ぬ存在であると、いうことである。

その、死というものを、どのように、捉えているのか・・・
それが、問題なのである。

そのために、小原氏も、力説して言う。

別に、力む必要はない。
確実に、人間は、生まれてから、死に向かって、生きているのである。
そして、今も、たまたま、生きている、だけのこと。

誰もが、逃せれられない、死、である。
私は、言う。
だから、生きるに意味などない、のである。

死ぬために、生きているのである。
これで、おしまいである。

キリスト教は、イエスによって、死を超えたという教えを言うが・・・
全く馬鹿げている。

いまだかつて、死を超えるものなど、ない。
キリスト教徒も、皆、死ぬ。
天国に行くというのは、単なる、願望である。

ちなみに、天国に行ったという人と、会うことはない。

死後の世界を、信じる人も、信じない人も、死ぬ。
ただ、それだけのことである。

それで、両者共に、生きるに意味付けを行うという、愚劣さ。

私の、田舎では、理屈を捏ねると、糞して寝ろ、と言われた。

理屈が極まるのである。
糞して、寝ろ・・・
それで、終わり。

屁理屈をつけて生きても、生きなくても、確実に、死ぬのだから、屁理屈は、いらないのである。

バカも、アホも、賢い人も・・・同じ。
死ぬ。