小原
安泰を祈る・・・
無自覚に、である。
呆れる。
だから、言う。
自殺を考える人は、黙っていても、死ぬので、それを待てばよい。
ところが、自殺する人がいる。
つまり、幻想、妄想の、生きる意味付けを出来なかったのである。
要するに、安泰を祈るのは、死ぬまでの時間を、何とか、伸ばしたいのである。
それは、無理だ。
今日、死ぬかもしれない、のである。
それでは、どのような気持ちで生きるのか・・・
と、いうことを、様々な、人たちが、様々な、思想、信条に基づき教える。あるいは、説く。
それが、教義になったりする。
何故、生きるのか・・・
という、本が出たことがあるが・・・
つまり、自殺防止のためだろう。
更に、
子供たちに、生きる意味を、教えるためか・・・
どうしようもないときどうしたらよいのか。これこそ現代人にとってもっとも切実で実存的な問い掛けであろう。生きがいを求める声はあちこちにこだましている。
小原
だから、私が言う。
生きるに意味などない、と。
その意味を知ったと、思ったところで、それは、単なる、妄想なのである。
ただし、辛うじて、その妄想でも、信じたいという気持ちは、理解する。
金儲けして、安楽な暮らしをしたいと思っていた人が、突然、心臓麻痺で死ぬこともある。
更に、大枚な金を得て、これからだという時に、死ぬ人もいる。
大半の現代人が、金に拘る。
金さえあれば・・・
これが、生きる意味になる。
実際は、幻想、妄想なのであるが・・・
億万長者が住む、豪邸などを見て、私も、こうなりたいと、思うが・・・
それを目指して、努力する。
それも、いいと、思う。
怖いのはこの肉体の死、それも自分の死である。いくら金があっても死ねばおしまいである。・・・
世の富はいわば自転車操業のようなもので、止まると倒れてしまう。われわれは、足を動かしている間だけ倒れない自転車のように、生きている間だけ物を所有できるのである。
そのせいであろうか。死を防ぎ、老いを隠すために、化粧品で小じわを隠し、ドリンク剤を飲む。
金は預金し、あるいは生命保険に入る。そのほか、子供を産むのも、精神的な相続者として後継者をつくるのも、すべてこの肉体の朽ち果てとともに終わる私の死を避けようとする努力、フロイトのいわゆる生命保存の欲求のあらわれなのだろうか。
小原 改行は私
つまり、暇つぶしをするのである。
大義というものに、生きぬ限り、人間の生活は、死ぬまでの、暇つぶしなのである。
そこで、少しばかり、大義というものを、言う。
戦争で死ぬ。
それは、大義がある。
国のために・・・
勿論、国というものが、どんなものなのかを、解説する必要があるが・・・
日本では、国家という。
国の家である。
つまり、国は、家であるという、観念である。
日本以外の、国という意識は、家という意識は無い。
これは、伝統から出た言葉である。
つまり、神武天皇の、八紘一宇からである。
物語、神話から続く、日本の伝統である。
この、伝統という言葉も、説明が必要である。
何せ、東大の教授でさえ、伝統とは、何を持って、伝統というのか、と言うのである。
勿論、在日韓国人の、教授だったが・・・
日本の伝統など、無くていいと、思う人であるから・・・か・・・
日本には、確たる、国家幻想がある。
それが、民族の幻想である。
凄いことだと思う。
民族の、国家幻想が、確固として存在するのである。
私が言う、幻想、妄想も、中々、捨てたものではない。
人類は、集団生活をして、生きて来た経緯がある。
つまり、社会である。
その、社会に必要なものは、幻想なのである。
民族の、集団的幻想が、いかに、必要なものか・・・
大義とは、そういう、幻想から、出てくるものである。
これが、解れば、死んでも、いい。
人間は、そこでしか、生きられないものなのである。