生きるに意味などない95

肉体の老いゆくことはさびしく、死は恐ろしい。しかしそれ以上に精神の死は恐ろしい。われわれはふつうしばしば、肉体が滅びて初めて死ぬと考える。しかし、じっさいは肉体の滅びる前に、まさにその少し前に、まずこころにおいて死ぬのである。
つまり、われわれが近接未来をあてこむとは、いまより後のものをあてこむことであるが、われわれの精神は、つぎにくるものの前にあらかじめ死ぬのである。われわれはだめになる前に、もうだめだと思ってやめてしまう。精神の死が肉体の死に先行するのである。
やる気をなくしてしまった人はもはやそれをすることができない。やりがいを感じないで仕事をしている人が、どうして創造的な仕事をできるであろう。老人は気から老い、若者は精神からほろびてゆく。家庭生活と幼児教育の意義は大きいのである。
小原 改行は私

最後の部分が、意味である。
家庭生活と、幼児教育・・・

その中で、学ぶことが、一番大切なこと、というのである。

30年前程に、流行した、人生論・・・めいた、文である。

哲学者は、何度も、同じことを、繰り返す。
そして、繰り返しの中で、洗脳する。

突然のように、家庭生活と、幼児教育である。

実際、家庭生活の中で、学ぶことは、甚大である。
更に、幼児期の教育である。
人は、生きる原型を、そこで、学ぶ。

おおよそ、9歳で、生き方が決まる。
生きる、あらゆる好みが、決定するとも、言う。

生き方の、好みである。
人は、この、好みから、逃れられない。

食べ物、性、その他、諸々が、おおよそ、9歳で決まるとしたら・・・
それを、矯正することは、出来ない。
ただし、強烈な洗脳の、信仰ならば、別だ。

突然、人生が、変わるということは、無い。
あるとすれば、突然の事件、事故である。
また、精神の転向か・・・

死ぬことを、説くが、実は、死ぬことの前に、人生には、突然の出来事もある。
その、突然の出来事により、変更する人生もある。

特に、人間は、見ることにより、変わる。
視覚は、強烈なのである。

ある人は、フィリピン、マニラのゴミ山に暮らす、人々、そして、子供たちの姿を見て・・・
人生が、変容した。

日本に帰国して、遊び道具をすべて捨て、その見た、人々のために、子供たちのために、支援活動を始めた。

人生が、一変したのである。
そういうことが、起こる場合があるということ。

ただし、それを同じように見ても、何も変化の無い人もいる。
何故、変化したのか・・・
それは、その人の、好みだった。

そのように、生きることが、好みとして、目覚めたのである。

それは、意味付けではない。
意味付けして、変化することは、無い。
それは、単なる、洗脳である。

また、ある人は、徹底的な貧しさの中で、目覚める。
金を得るという、固い意志を作る。
そして、成りあがる。

まだ、色々あるが・・・

それは、意味付けではない。
好み、である。

生き方の、好みは、誰もが持つが、いつ、それが、現れるのかは、解らない。

避けても追ってもやってくる死。死は黙って向こうからやってくる。死は外開きになっていてわれわれの考え次第で自殺できる点もあるが、最終的には内開きであって、向こうからだけこちらに開くドアなのだ。
死ぬときがくると、われわれは何をさておいても自動的に消滅してしまう。いつ死ぬかはほんとうは誰もわからない。だが、これこそは、人間生きるかぎりは生きられるという大いなる慰めではないのか。科学はわれわれに死の時を告知しようなどとしてほしくない。
小原 改行は私

生きるかぎり、生きられる・・・
大いなる慰め。

残念ながら、慰めなどという、ものはない。
人生に、慰めなど、あろうはずがない。

仮にあるとすれば、ただ、自然である。
自然の中で、慰められる。
何故か・・・
自然は、すべてを教えてくれる場所だからである。

人間は、すべて自然から、学んできた。
自然を見て、観察して、生きることを、知った。

生きていることを、自然を見て、知ったのである。

そして、自然は、この世が、地獄であることをも、教えた。

自然の中にあるものは、すべて、その性質により、生きている。そして、それが、雨風で流され、食われたり、食ったりする。
ただ、翻弄されるだけである。

人間は、自然によって、癒されると、共に、自然によって、地獄の形相を見る。

全く、自然には、救いというものがない。
それは、人間も、同じで、救いというものがないのである。

もし、あると信じているなら、それは、単に信じる行為としての、幻想、妄想である。