踊れ歌えやピリピノ・ウェディング 22  ネグロス島バコロド平成29年5月(文責;コータ)

 1565年、スペイン人のレガスピが、セブ島に到着。その後ネグロス島に米が豊富にあると耳にして、ネグロス島の首長に、ビーズと引きかえに米を要求。それを契機に、スペイン人は、たくみな手段で首長をだまし、何度かの戦闘の後、ネグロス島を領有した。

 ネグロス島が本格的に砂糖生産地帯と変わったのは、1840年代のこと。植民地政庁とカトリック教会が、ネグロス島を「目覚めさせる」ために、抜本的な行政・布教政策を展開してからのことである。

 その方法は、自然崇拝を行い、ニッパヤシの住居で昔ながらの生活をしていた山岳部の住民を、カトリックに改宗させ、集住させるというものだった。もし言うことをきかなければ、銃をもって脅した。

 山地民は、降伏せずに抵抗した。何の警告もなしに大砲とライフルを発射するスペイン人の武装警官隊に、槍、短剣、山刀で戦い、家に火を放ち、300人が自決した。

 そして1860年頃には、中国人商人とスペイン人の地主の手により、集住させた住民に砂糖きび栽培と製糖業を行わせたのである。

 その後米西戦争。1898年にアメリカ海軍の提督がマニラ湾でスペイン艦隊を撃破。その機に乗じ、バコロドで革命軍が蜂起、各地で勝利を重ねてフアン・アラネタが全島を掌握。一度はネグロス島で連邦共和国設立を構想するが、フィリピン軍はアメリカ軍との戦争に敗退。ネグロス島もアメリカ軍政の統治下に置かれ、1903年には抵抗空しくアメリカに征服される。

 日本軍が進撃してくるのはその実に40年後である。40年間、ネグロスはアメリカの植民地であった。

 セブ島、ネグロス島は、アメリカの軍事的な重要拠点であった。アメリカと交戦していた日本軍は、州都バコロドに進軍し、占領した。そこに住んでいたイロンゴ族が、40年もの間アメリカに植民支配されていたため、日本軍の統治を拒み、地下活動で抵抗した。やがて反攻に転じた米比軍と日本軍は、他に類を見ないといわれる激しい戦闘を行う。敗退した日本軍は山岳地帯に逃げ込むのがやっとであった。戦死者、餓死者は1万人を数える。

 要するに、スペイン人、アメリカ人がフィリピンをおのれの物としたがため、日本人とフィリピン人の幸福な出会いは阻害されたという事だ。

 もともとフィリピン人、その地域民であるイロンゴ族と日本人に、争う理由などなかったのである。全てはスペイン人、アメリカ人の底なしの強欲さのせいである。

 遅まきながら、イロンゴと日本に、理解し合える時代がやっと訪れた。それが今なのだ。エイシァとフランシスの結婚式で、わたしが同じテーブルを囲む。本来あるべき姿に戻ったといえる。

 つい最近まで、飢餓の島として知られたネグロス。それも全て、スペイン人・アメリカ人、また中国商人の、砂糖ビジネスへのあくなき執着がもたらしたものである。砂糖きび栽培に従事させる為、人々を一ヶ所に集住させた。砂糖きびのプランテーションで働くしか生きる道の無い状態に追い込み、砂糖の市場価値が暴落したときは、何の救済措置もとらなかった。子供は栄養失調で5人に1人が死んでいった。

 今でも、通りにはストリート・チルドレンがあふれ、ブロックを枕に寝ている現状がある。時間は少しずつ傷をいやすだろうけれど、まだまだ底知れない貧しさがネグロスにはひろがっている。エイシァはその中で、出来る限りの事をしようとしている。