生きるに意味などない98

あの世よりはこの世がよい。しかし過去よりは未来をよくしょう。こう考える多くの現代人は、なるほど合理的に見える。あるかないかがわからぬあの世の救いや喜びをあてにするより、まだ過ぎてしまったことをくよくよ考えるより、これからのこと、未来をよくしていこう、と。
たしかにこれはもっともなことだと思われる。だがこのような現代人の時間意識にはひとつの落とし穴がある。彼岸などは認めないという現代人が、この世の最後にではなくて、近接未来の最後のところに、自分たちの待ちこがれるユートピアを幻想するからである。だがユートピアはもとよりどこにもないものである。ないはずの時間や彼岸とひきかえに、近接未来をあると思い込んでもそれはやはり幻影である。
小原 改行は私

それを言うなら、時間という観念が、幻想だと、言えばいい。

ユートピアを幻想する・・・
当然、人生は、それの、繰り返しである。

何一つとして、確たるものが無いのである。

ただ、何となく・・・
そして、それは、哲学、思想にも言える。

マルクス主義その他いわゆる唯物思想も、無なる時を有化しているかぎりにおいては、もはや自らが標榜する唯物論ではなくなって観念論に移行していると言わざるをえまい。
小原

人間は、観念という、偏見を作り出すものである。
そして、その偏見こそ、個性と思い込む。
勿論、偏見は、必要である。

何せ、その偏見こそ、常識と言われるものだからである。

おおよそ、人は、18歳くらいまでに、偏見を完成させる。
そして、それが、彼の常識となる。

偏見が無い人は、個性が無いと、言われることになる。

何を、言いたいのか・・・
つまり、人間は、そのようにしか、生きられないのである。

偏見を持たず、つまり、常識も持たぬ者は、迫害される。

それぞれの、世界で、迫害を受けるのである。
例えば、ユダヤ、キリスト、イスラム教の世界では、その、一神教の偏見を持つことで、生きられる。

人間とは、この程度の者である。

そして、常識を持つと、安心して、生きられる、という、オマケである。

そこで、小原氏の、言い分である。
われわれは始原と終末、したがってほんとうのふるさととほんとうの死とがわからず無だというだけではない。むしろこの二つの極のなかにあって、われわれがふつうあるものと決めてかかっている近接未来も、このいまという現在の一時点さえも、あるということは、考えてみるとふしぎなことなのだ。それゆえ、始原とはすなわち、ふるさともしくは神話の問題であり、終末とは死もしくはこの世のカタストロフィーのことだと言う人は、単純な思い込みをしていることになる。重要なのは神話でもカタストロフィーでもない。この「私」が「いま」をどう解釈し、どう意味付けるかなのである。
小原

矢張り、意味付け、である。

突然だが・・・
あの、大東亜戦争、第二次世界大戦に関して・・・

日本人は、敗戦後に、あの戦争の意味付け、解釈、批判的な検討をするべきだった。と、いう人がいる。
天皇に責任があるというなら、そのことの意味を、日本人自らが、論じるべきだった、と。

私は、話を複雑にしたい訳ではないが・・・

大義に対する、意味付けは、必要なのである。
何故なら、230万人の兵士が、死んでいる。
これは、ただならぬことである。

人間の人生には、意味に意味などない、が、戦争により、犠牲になった人たちには、意味付けが必要なのである。

つまり、言葉遊びなど、通じない、世界が開かれたのである。

それは、不可抗力だった。
人生の、不可抗力を生きる時、それは、幻想でも、妄想でもない。

ただの、個人の人生は、幻想、妄想の中にあるが・・・

大義というものには、意味が必要なのである。

小原氏の、論調をまだ拝借するが・・・

時間内存在としての人間には、結局「いま」しかない。いましかないから「いま」を生きるのである。この「いま」とは現在のこの瞬間のことである。このいまのなかに、われわれがふつう「過去」とよぶいまと、「未来」とよぶいまがふくまれている。いまにならない過去は、もう過ぎ去ってないのであり、いまにならない未来は、未だ来ていないから知ることはできない。
小原

上記のように、考えていると、それは、単なる、言葉の遊びになる。

個々の人生のことを、云々することは、出来ない。
それは、個々人は、それぞれ、別な存在である。

同じ人間は、存在しない。
ただ、何となく、同じ人間が、存在しているように、信じているだけである。

人は、百人百様であり、全く別物という、意識を持たなければ、話は始まらない。

そして、それぞれの、意識は、意味付けをして、辛うじて、生きているかのように、思っている。
生きていても、死んでる人もいる。
それでは、生きる、とは、何か・・・

そこで、生きる意味付けが求められる。
だが、それは、意味の無いものだった。

それより、大義を生きた人たち、そして、それに犠牲になった人たちに、思いを寄せると、辛うじて、死ぬ意味が見えるのである。

私は、それが、唯一の、救いだと、言う。

つまり、それは、死ぬ義務である。