国を愛して何が悪い179

やすらかに見るべき所を、さまざまに義理をつけて、むつかしく事々しく註せる故に、さとりなき人はげにもと思ふべけれど、返してそれはおろかなる註也
本居宣長 紫文要領

素直に読むべきところを、特別の教えにより、難しく解釈して読むなどは、悟りの無い普通の人は、そうかとも、思うだろうが、それは、愚かなことである。

物語は、私の言い方にすれば、面白いから、読むのである。
変な理屈は必要ない。

当時は、儒教と仏教の考え方により、解釈したのである。

そんなことより、物語の中に書かれている、肝心要のことがある。
それは、人間について、である。

人間の、普遍的な姿を観るのである。

文学は、源氏物語に戻ると、言われる。
つまり、それは、人間を観る目のことである。

物語の内容に関しては、省略するが・・・

仏教に無理にひきよせた解釈を宣長はとくにきらったわけだが、今日の我々もまた「やすらかに見るべき所」を、いわゆる「近代的解釈」によって、こじらせている場合が多いのである。しかし源氏物語には、「もののあはれ」だけで尽くせない複雑な要素がある。伝統の色好みと、宣長がきらった仏教信仰との、微妙にからみあってゆくそこに生じた「たゆたひ」である。仏教信仰なくしてはあらわれえなかったもので、宣長もその点は一応みとめている。
亀井

それは、当時の時代性と、時代精神のことである。

たゆたひ、という、心的状態でしか、説明出来ないものである。
もののあはれ、が、心象風景であれば、その、たゆたひ、というものも、心象風景である。

何故、たゆたひ、という、心境が、心象風景にまで、広がったのか・・・

私は、その、たゆたひ、という、風景も、もののあはれ、に、含まれていると、考えている。

さて、物語の構成だが、「桐壺」から「藤裏葉」までの、三十三帖を第一部として、「若菜」から「幻」までを、第二部とし、「匂宮」以下を、第三部とする。

勿論、その区別の付け方も、読む人、それぞれの問題である。
一つの目安である。

その物語の、テーマについて、亀井は、以下のように書く。

源氏物語は光源氏一族をめぐる七十余年の流転の物語である。作中の人物は、しばしば「来し方、行く末」についての嘆き、不安の思いを述べているが、生の流転とは何かという問いをこれほど深く蔵した物語はあるまい。そこに生ずる人間の生死の秘密に、紫式部たちは強い好奇心をもって思索を傾けたにちがいない。それを「宿世」と呼んでもみても解明しつくせない人生のふしぎに憑かれたように、この物語は連綿と書きつづけて行ったように思われる。
亀井

私も、異存はない。
だから、それは、いつの時代もの、テーマなのである。

だから、今でも、連綿と書き続けることが出来ると、言う。
現に、今も、続々と、物語が創作されている。

それは、すべて、時代性と時代精神によるものである。

人生の不思議・・・
事は、それである。
人生は、実に、不思議なものである。
だから、人間は、書き続けるのだ。

一人の男と、複数の女との、関係から、何を見たのか・・・
それは、人生の不思議と、共に、当時の時代性と、時代精神を観たものである。

平安期とは、実に平和な時代だった。
特に、貴族社会は、まさに、色好みの世界しかなかつたと、言ってもい、いい。だから、男たちは、力なく、色好みの世界に浸り、危機意識が無い。
そんな中で、女たちは、目覚めていた。

そして、そんな男によって、振り回されるような女の、人生である。


総勢、五百人を超える、登場人物である。
書写している私は、時々、誰が誰やら、解らなくなる。
つまり、主語のない文であり、とてつもない、労力を要する、読み物である。

小説作法の無い時代に・・・
世界初の小説と、言われるだけある。
暗中模索のような様である。

それだけに、時間の流れというものを、強く、意識するのである。

この物語は、光源氏の色好みを主題としていることはたしかだが、実は色好み自体が問題なのではない。それに伴って起こる矛盾や罪の自覚や、様々な人間の身心の移り変わり。言わば生の翳りを通して「無常なる存在」としての人間を確認し、「定めなき世」に処する道を求めながら、しかもなお定着せず流離してゆく生に向かって、執拗な問を発しているのである。
亀井

ここで、再び、万葉集の時代を俯瞰すると、良く解るのである。
罪の意識・・・
無常なる存在・・・
万葉は、そのような観念は無いと言える。

そういう意味では、仏教の思想が、実に大きく影響を与えていると、言う。

密教を過ぎて、浄土教の教えである。
以前の書いたものを、参照して欲しい。

この流転において生ずる生の「翳」こそ重大なのだ。それに対して作者はいかに敏感であり、また入念な筆をふるっているか。・・・
亀井

ここに、物語の、面白さがある。

源氏物語の進行とは、生に死に近づく翳を伴うことにおいて生だという思想の成熟してゆく過程と言ってよい。むろん浄土教の直接的な反映はないが、紫式部の心の底にはその教えによって影響された「死の教」はあったはずである。・・
陰翳美の発生するこれが根源である。
亀井

陰翳美・・・もののあはれ
とも考えられるのである。