国を愛して何が悪い180

ここで、少しばかり、源氏物語の、名場面を紹介する。

有名な、須磨の段の一部。

須磨には、いとど心づくしの秋風に、海はすこしほけれど、行平の中納言の、「関ふき越ゆる」と言ひけむ浦浪、夜夜は、げにいと近う聞えて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。御まへに、いと人ずくなにて、うちやすみわたれるに、ひとり目をさまして、枕をそばだてて、四方の嵐を聞き給ふに、波、ただここもとに立ちくる心地して、涙おつともおぼえぬに、枕うくばかりなりにけり。琴を、すこし掻き鳴らし給へるが、われながら、いとすごう聞ゆれば、ひきさし給ひて、
恋ひわびて なく音にまがふ 浦波は おもふかたより 風や吹くらむ

文章では、音に敏感である。
笛、琴、笙など、自然の音も、巧みに取り入れている。

更に、物語の中では、現在使用される、言葉の語源が多い。

次は、最も、美しいと言われる、部分である。
篝火の一節である。

秋になりぬ。初風、涼しく吹きいでて、「せこが衣」もうらさびしき心地したまふに、しのびかねつつ、いとしばしば渡り給ひて、おはしまし暮らし、御琴なども、ならはし聞え給ふ。五六日の夕月夜は、とく入りて、すこし雲がくるる景色、をぎの音も、やうやうあはれなるほどになりにけり。御琴を枕にて、もろとも添臥したまへり。「かかるたぐひあらんや」と、うちなげきがちにて、夜ふかし給ふも、人の咎めたてまつらん事をおぼせば、わたり給ひなんとて、御まへのかがり火のすこし消えがたになるを、御供なる右近の丈夫を召して、ともしつけさせ給ふ。

現代語訳で、読むのとは、全く別物である。

矢張り、原文を読み、その語感に浸ることが、唯一の読み方であると、思う。

さて、物語の筋からいえば、定説のように、三十三帖目の、「藤裏葉」の最終場面で、一部は終わる。
続いて、「若菜」に移る。

この「若菜」は、上下巻あり、物語では、最大の量を占める。
それは、一種の、家庭悲劇と呼ぶべき物語である。

また、同時に、物語の総決算とも、思える巻である。

「来し方、行く末」についての不安と嘆きが、全面的にあらわれてくるのもこの巻だ。たとえば朱雀院が、最愛の娘、女三の宮を光源氏の妻としてすすめる心境などに、子を思う親として凡夫さながらの愛執がみられる。自分の子孫が「ただよひさすらふ」ような運命におちるかもしれない行く末への、心痛である。しかしここに登場する人物は、すべてこれ「ただよひさすらふ」人々ではなかろうか。人間の流転という事実の前にいずれも脅えているのだ。
亀井 現代文は私

物語全体が、そのようである。
栄華の裏には、その、「ただようさすらう」という基底がある。

まさに、人間の存在そのものの、あはれ、である。

さて、物語の、主は、源氏であるが、もう一人、若紫とは、源氏が、理想の女性として、幼少の頃に引き取り、育てた、後の、紫の上である。

第一部は、この、紫の上の物語と言っても、いいほどだ。

紫の上が、死ぬ巻が、「御法」みのり、である。

作者の理想の女性が、描かれている。

その一部。
来し方、あまりにほひ多く、あざあざとおはせし盛りは、なかなかこの世の花のかをりにもよそへられ給ひしを、限りもなくらうたげにをかしげなる御様にて、いとかりそめに、世を思ひ給へる気色、似るものなく心苦しく、すずろにものがなし。

紫の上の、死後の顔を、源氏と、その息子、夕霧が見る場面である。

御髪のただうちやられ給へるほど、こちたくけうらにて、露ばかり乱れたる気色もなう、艶々とうつくしげなるさぞ限りなき。燈のいと明きに、御色はいと白く光るやうにて、とかくうちまぎらはす事ありし現の御もてなしよりも、いふかひなきさまに、何心なくて臥し給へる御有様の、飽かぬところなしと言はむもさらなりや。

亡き人の、表情である。
紫式部が、描いた、永遠の女性の姿である。

その死は、そのまま、源氏の死に、結びつく。
結果、源氏の死の巻は、ただ、題名だけが、残る。

雲隠・・・
空白のままに、残されたのである。

物語は、しかし、終わらない。

源氏物語は、生の流転とは何かという執拗な問いを蔵した作品であることはすでに述べた。筋の紆余曲折の面白さはむろんだが、紫式部はじめ、共同制作に当たった人々は、すべてこの問いに憑かれた人々であったにちがいない。物語自体は七十余年の時の流れのうちに終わるが、この問いには「終り」はない。
亀井

最終の、宇治十帖にしても、引き続き、テーマは変わらない。
今も、物語は、未完である。

つまり、終わっていないのである。
その後は、読者が、続けて、その問いを問い続けるという、形になっていると、私は思う。

そして、書写をしていて、気づくことは、多くの人の手により、物語が作られいった。あるいは、語られていったのである。

そして、現代も、なお、そのテーマを追い求めて、様々な、文学作品が、生まれている。
つまり、源氏物語は、日本の散文小説の、生みの親でもある。

世界初の、物語は、今も、生き生きとして、生きるのである。

もう少し、源氏物語に触れて、次に移る。