国を愛して何が悪い183

9世紀からおよそ四百年にわたる王朝文化は、複雑な形相を呈するが、その盛時における最も特徴的なものをあげるなら結局、女房文学と、浄土信仰と、藤原の造型美であろう。
亀井

それらが、相互に影響しあい、色好みと、生の流転、出離と死の問題を、彼らが、いかに思索し、表現してきたかである。

全体として見れば、唐風から、和風化への推移である。
そして、特に、ひらがなの成立が、大きな役割を果たしたのである。

それを、12世紀の人々は、受け継ぎ、中世への道を歩む。

藤原の栄華が傾き、院政時代から、平家政権へ、続いて、源平合戦を経て、鎌倉幕府が成立する。

女房文学は、再び、現れることはなかった。
造寺造仏は、相変わらず盛んだが、藤原的造型の華麗な美しさは、見られない。

平家一門が、あっけなく、滅んだ。

さて、永承七年、1052年から、末法の時代に入ると、言われた。
つまり、仏法の末期である。

その世は、修行しても、しるしなく、人心荒廃して、濁世になるという、思想である。

その年が、まさに、末法の初年になると言うのである。

私はさきに源信の浄土教から、二つの流れの生じたことを指摘しておいた。その中の「口称念仏行」が主として下層貴族、知識階級のあいだに内面化されて行ったが、これが新しい武士階級や一般の民衆に、どんなかたちで受け止められたかという問題がある。文学とか造型には関係なく、ただ浄土信仰のみに従って行った人々は、数としては最も多かったのではなかろうか。
亀井

この浄土思想は、法然、親鸞へと、受け継がれ、更に、それ以前に、空也によって、世の中に広まっていた。

何にせよ、信仰に関しては、多くの言葉を要する。
今は、浄土信仰については、省略するしかない。

時代の乱れや、寺僧・法師・験者たちの腐敗も末法の世の原因だが、ふりかえって、まず自己を凝視するのが信仰の作法である。自己の信仰そのものに危機を感じ、仏と自己との間の距離の無限大を実感しなければならないということだ。救われ難い存在だという自覚、念仏の生じるそこが唯一の場だ。しかし往生は可能だろうか。・・・
亀井

宗教に関する、信仰の問題は、実は、個々人の問題である。
しかし、時代性を見れば、実に深刻な問題だっと、思える。

それは、新しい価値観を与えられたからである。
仏教の一端、浄土思想というものである。

それ以前の、日本人には、そんな観念は無い。
ただ、死ぬと、自然に隠れるという、思いであった。

浄土信仰により、人生観に、翳りが出来たという。

決定的に重要なのは阿弥陀仏の本願だ。それとの邂逅によって、凡夫であることを自覚せしめられるわけだが、凡夫の本質とは妄念である。それは人間として、死ぬまで避けられない愛着、妄想、妄執である。この自覚において念仏せよと言っているのだが、こういう法話は、自他の妄念に手を焼きつくした結果だというより他にあるまい。しかしここに源信の、12世紀に対して先駆した意味がある。
亀井

さて、12世紀の半ば頃に成立した、今昔物語である。
そこには、インド、中国、そして、日本の様々な、話が出てくる。

世俗、雑事、悪行、霊鬼などを書いたもので、31巻千余の説話である。
それが、どのようにして、まとめられたのかは、不明である。

古文献に通じていた僧や知識階級の筆に成る部分もある。諸国流民の語部、旅僧、旅人等の伝えたもの。或いは巷間のうわさ話などを、たどたどしい筆で記録したような部分もある。「宇治拾遺物語序」に伝えられた隆国のごとき飄逸な風流人の、筆のすさびも加わっているだろう。
亀井

第一に注目すべきは、平安朝を中心とした仏教説話である。「出家」譚と「往生」譚である。これが最もひろく伝わったにちがいない。その中でも無名の凡夫の出家の動機、往生の相などを通して、当時の底辺の人々の一端はうかがえるのではないだろうか。
亀井

ここで、問題なのは、その文字である。
文体である。
漢字に、カタカナ書きで、その特徴は、即時的で、端的明快である。

ひらがなの文の連綿性とは、まさに逆である。
女房文学とは、異質の世界が、出現した理由は、この文体にある。

たとえば源氏物語を貫く色好みの情緒とか、宿世のあはれのひびきとか、出離と死をめぐってのたゆたふ心などは、ここには全くみられない。柔軟に曲折にみちた心理などを抹殺した非情の世界である。大体は文学以前の記述と言って差し支えあるまい。
亀井

その内容については、省略する。
ただ、不思議なのは、何故、あの平安朝の、女房文学を引き継がなかったのかという、疑問である。

淡々として、ただ、事物を語るのみである。

およそ優雅、優美といった気品からは遠い、野性的な一種独特の散文である。
亀井

中には、竹取、大和物語、平中物語の一部も、伝えられているが、異なる文体のために、そのまま写しても、調子や、雰囲気が違う。

言葉遣いのわずかの差で品格の落ちていることは否めない。歌物語は、やはりひらがな文でないと味わいは出ないようである。
亀井

当然の如くに現れた、物語である。
というより、仏教説話集とでも、言うのか・・・
実に、不思議な書物となっている。