生きるに意味などない102

いまはひとつの点として、人間が生きて何かを経験すべき絶対点のようなものである。人はいつもいまにしか生きない。いまにしか生きないとは継続がないということなのだが、われわれはときどきこのいまをゴムバンドのように引き伸ばす。のばせばのびるから遠いものかと思う。しかし、これは生の巧妙なトリックなのである。
小原

あしたという日はいまもう来ている。期待をもってあしたというとき、明日はいま私のなかにある。
小原

人間とは、このようなものであると、小原氏は、言う。

そろそろ、私は、種明かしをする。
それは、日本の伝統にある。

人生は、無意味である、とは、日本の伝統である。
その意味は、無、空、などに表現される言葉である。

別な言い方をすれば、もののあはれ、である。

つまり、日本人は、人生が無意味であることを、知っていた。
突き詰めれば、無、空になるという・・・
これは、漢字が輸入された際に、利用したが・・・

すでに、日本には、大和言葉があった。
あはれ、である。

その、もののあはれ、とは、喜怒哀楽などというものではない。
人間の作り出す、すべての、心象風景のことを言う。
更に、天地万物に対する、共感能力を言うのである。

無、空、などという、観念的な言葉が、輸入されて、とりあえず、それらの言葉を使った。

それらは、特に、仏教用語である。
だから、仏教の概念で理解されるものである。
が、中国からの輸入であるから、当時の中国の思想の概念も、混じる。

おおよそ、老荘思想である。
特に、禅などは、老荘思想そのものである。

何故か・・・
禅の教えを、老荘思想の言葉を持って、説いたからである。

仏教も、実は、バラモンの言葉である、サンスクリット語により、解釈された、。つまり、それは、バラモンの概念を使う。つまり、バラモンの教えに、準じるのである。

本当の、仏教など、どこを探しても、無い。
特に、日本の大乗仏教などは、仏教とは、いえない。
亜流である。

詳しいことは、別エッセイ、神仏は妄想である、を参照ください。

日本の大和言葉は、漢字を持って、表現されない。
そのために、仮名、平仮名が発明された。

一音に意味があるというもの。
つまり、シラブルなのである。
言霊は、音霊により、音霊は、数霊により、成る。

おとたま、かずたま、である。

人間は、もののあはれ、を、生きるものであるとの、認識である。
つまり、無意味な人生を生きるのである。

そして、その無意味さは、自然と共生、共感して生きるしかないとの、突き詰めである。

更に、死ぬと、神になる。
ここで、明確に、一神教の言う神という言葉とは、別物である。
日本には、唯一超越した、神などは、存在しない。

あれは、人間が、勝手に、人間を支配するために、作り上げた、偶像である。

天地自然には、神が充満しているという、考え方である。

だから、人が死ぬと、神になる。
霊も、魂も、同じである。

すべて、カミと読む。

生きるに意味などない、のは、それなのである。

死ぬことにより、人間は、この世から離れて、救われる。
これは、ブッダの教えである、輪廻から、逃れるというものと、似ている。
似ているが、少し違う。

日本人は、輪廻を楽しむ。
この世の、地獄に、楽しんで、来るというものだ。

二度と、生まれることは、無いという考え方と、それを明確に知ることが、悟りというが・・・
日本には、日本人には、そんな無用な考え方は、必要ないのである。

つまり、壮大な、意味意識は、必要ないのである。

大脳化ゆえの、愚かさ・・・
皆々、偉人、その他の、偉人・・・
聖者、仏、神・・・

大脳化ゆえのもの。

痴呆になれば、何も分からなくなる。
それが、証拠である。

痴呆の人に、生きる意味を、尋ねてみるがいい。
意味不明である。
それが、人間なのだ。

つまり、痴呆の状態を見れば、生きるに意味などない、と知ることになる。

そして、意味なく、生き続ける痴呆である。

人間は、痴呆になる。
だが、死ぬまでに、痴呆にならない人は、幸いである。
少しの、意識があるからだ。

痴呆になったら、お終いなのである。
まだまだ、続く・・・
生きるに意味などない・・・