いまを軽く生きて、あすや来世の重さにたよる者は永遠にない。
永遠があるなら、いまのなかにある。いまが永遠でもあるはずなのだ!「いま」の重さはここにある。
われわれにとっては永遠はそれぞれの瞬間のなかにいますでに包括されているのである。
いまが永遠の一部であることを認識することは時間観に革命の起こることである。われわれは社会の革命や世界観の変革を叫ぶ前に、時間観を変革しなければならないのである。
小原 改行は私
西洋の倫理学を学ぶ者、そして、宗教などを、学ぶ者は、上記の言葉を言う。
私が言う、日本の精神を知らないのである。
今、永遠にも、意味は無い。
日本の、無の思想、考え方は、意味が無いということである。
それが、仏教用語であろうと、更に、仏教では、この、無の思想を、延々と語るが・・・
日本では、無、とは、意味が無いということである。
この、無の思想の無い、西洋では、ニヒリズムという言葉が、踊る。
ニヒリズムとは、すべてのものが、無意味と化す、状態を言う。
要するに、物事の、根拠がなくなることである。
無根拠、なのである。
だが、日本の精神にある、無は、それ自体が、根拠なのである。
西洋の場合は、無根拠ほど、恐ろしいものは、無い。
あらゆる分野において、西洋は、無根拠を怖れる。
しかし、日本の精神は、違う。
日本人は、物事が最初から、無意味であることを、知っているのである。
世の中には、常なるものは、無い。
すべては、無常であるという、考え方である。
仏教で言う、観念的な無常とも、違う。
あるがままに、無常なのである。
それが、無常観になり、無常美観にもなる、日本の精神である。
無と、空とは、概念としては、異なるものであるが、日本の精神は、無も、空も、同じ観念で、捉えた。
日本の文化の、面目は、そこから、ゆらぎ、たゆたい、という、多様性のある、深い味わいが、作られていったのである。
無意味で、何の問題もない。
日本文化の、核心には、この、無があるから、それが、すべてを抱擁する。包含する。
例えば、天皇という存在も、日本の精神の、無、というものを、体現しているのである。
西洋は、ニヒリズムに陥ると、後が無い。
だが、日本では、何の問題もない。
無意味が、最初にあるからである。
それを、私は、もののあはれ、という言葉に、昇華させたという。
無に対立するものは、有である。
西洋の思想は、この有を軸にする。
つまり、神の存在である。
ユダヤ、キリスト教の神は、唯一絶対の超越した存在である。
日本には、そんなものは、必要無いのである。
だから、気の毒だが、小原氏の、延々とした、倫理学の説教も、あまり、必要ではない。
苦難、不幸がある時、西洋では、それは、神の隠された何かがあるのだということで、解消する。
日本では、当然そんなことは、あるべきことで、悲しいが、受け入れる。
その際に、あはれ、である、と思うてのである。
苦難、不幸は、隠された意図も、書く意味もない。
耐え難いことでも、不条理でも、日本の精神は、もののあはれ、無ということが前提で、受け入れる。
全く、その状態から、受け入れる態度まで、別物である。
日本の精神史の不幸は、その、西洋哲学を学び、日本の精神を放置しておいたことである。
だから、何でもなかつたことが、何でもあるかのように、考えるようになった。そして、それは、日本の精神から見れば、単なる、言葉の遊びだったのだ。
更に、根拠が、無であるから、人は、百人百様に、意味をつける。
私は、その、百人百様の、意味を否定しない。
ただ、私が言うことは、生きるに意味などない、ということである。
それが、日本の精神にあるからである。
20世紀初頭に、西洋では、神という、絶対的存在に対して、信じられなくなるという、自体が生じる。
つまり、ニヒリズムである。
だから、一度、西洋は、崩壊したのである。
何とか、持ち直したのは、辛うじて、ユダヤ、キリスト教の伝統に、捉まり、更に、新しい哲学、思想が現れたからである。
中には、神を否定する、ニーチェなどのような、思想家もいた。
神は、死んだ。そして、新しい超人の時代であると・・・
西洋の、ニヒリズムの生みの親は、1931年に数学者である、ゲーデルが、科学であれ、いかなる合理的な言説の体系であれ、自ら自身を基礎づけることはできないということを、論理的に証明した。
これを、不可能性の定理、と呼ぶ。
この定理は、いかなる学問体系であれ、科学であれ、それが真理であるという確かな理由は存在しない、ということだ。
つまり、無根拠の定理である。
ここから生まれた、ニヒリズムが、すべてを、壊したのである。
だが、日本では、そういうことは、起きない。
すでに、日本の精神は、ニヒリズムを超えているからである。