小原
この、救いは、欧米人に言えることである。
無根拠、無意味であるという、日本の精神の世界では、それは、救いではなく、当たり前であり、救いは、死ぬ、ことである。
欧米の哲学、倫理学を持っては、日本の精神を理解できない。
更に、今は、日本人も、上記の、欧米の考え方に、毒されている。
だから、言葉の多さを、好む。
欧米人が、神、絶対的存在を信じられないと、すべての存在に、根拠がなくなってしまう。
すなわち、それを、ニヒリズム、虚無主義という。
何事にも、神の隠された意図があると、考える彼らは、その存在が消滅することを、極度に恐れるのである。
だが、日本の精神は、そんな隠された意図も何も、特別な意味は無い。
耐え難い不条理でも、すべてが、無、なのである。
つまり、あはれ、なのである。
生きることも、死ぬことも、同じく、あはれ、である。
つまり、無意味なのである。
この、無意味とは、実に凄いことで、だからこそ、意味付けが生きてくると、私は、考える。
しかし、日本の精神は、それを、言葉にして、何らや表現することは、極度に少ないのである。
言挙げせず・・・と言う。
言葉にしないのである。
それは、所作、行為に現れる。
その、所作を延々と、伝承すること、伝統行為が、日本の精神である。
生きるに意味などなくとも、日本人は、生きられるのである。
これは、また、日本の風土でもある。
ある人は、仏教的境地と言ったり、禅の思想云々というが・・・
関係ない。
元々、日本に存在した精神の、有様である。
漢字文化が入る前から、日本には、言葉が存在した。
それが、大和言葉である。
漢字を利用して、仮名、平仮名を作り、大和言葉を、成立させた。その、大和言葉は、民族の魂である。
そして、言葉は、精神であり、日本の拠り所である。
だから、日本人は、まず、日本語の教育を、しっかりとするべきなのだ。その後に、多国語を学ぶことである。
バイリンガルでは駄目である。
英語教育を、日本語がまだ不安定な頃に、教えることは、罪である。
世界語が、英語・・・
とんでもない、考え方である。
これからの時代は、通訳もロボットである。
たゆたう、繊細な日本語の表現を、多国語に、訳することは、出来ない。それで、いい。
相手が、日本語を学ぶことである。
そして、日本を知るという意味では、日本語を学ぶことが、最も理想である。
そこで、生きるに意味などない、という、日本の精神を知ることである。
自由なこころは歴史をもたない。彼には「過去」もいまもなお生き生きとして現に在るものなのだ。彼は十分にその生の意義をかみしめる。彼にはいまが人生の最善の時、いや、いまだけが人生なのだ。よく引かれるイエスの「山上の垂訓」はこの意味において考え直されてよい点がある。
こころの貧しい人たちは、さいわいである。
天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである。
彼らは慰められるであろう。
いま「悲しんでいる人たち」はこの世では慰められないが、やがて来るべき世では慰められるだろうと言うのではない。彼らの悲しみがそのまま慰めに変えられるという意味なのである。・・・
来世に期待している人はいまの期待においてすでに慰められている。・・・
小原
このように、理屈を持ってして、説教を繰り返すのが、欧米人たちの、やり方である。
こうして、ある種の、騙しさが行われる。
勿論、私は、その精神を否定するものではない。
その、哲学、倫理学の中では、必要なことであろう。
だが、日本の精神には、必要ないのである。
悲しみは、あはれ、である。
それだけのこと。
その悲しみは、神の隠された意図があるなどとは、考える必要がない。
そのままに、悲しいのである。
そして、それを、受容するだけの、精神があるのが、日本の精神世界である。
失われた、日本の精神を、私は言う。
それは、明治期から始まる。
だが、歴史には、歴史の必然性がある。
明治期からの、云々を語れば、更に長くなる、エッセイになるので、省略する。
小原氏の、論説を、もう少し続けることにする。
何故、私が、生きるに意味などない、というのかを、まだまだ、証明しなければならない。