日々の言い分188

自然に畏怖の念を感じ、巨大な存在を想い、神や仏を敬うというのは、ある意味で素朴で原始的な感情である。そこまで否定する必要はない。
しかし、神や仏を押し付け、教祖を崇拝するように強制し、疑問を抱かせないように強烈な洗脳を仕掛け、教団のために金品を強要して、信者から金を巻き上げるビジネスモデルを確立した現代の宗教は信じるに値しない。醜悪だ。
この弱肉強食の資本主義の中での宗教は、「信じさせて集金するシステム」であることに気付くべきだ。宗教は金儲けのための仕組みとして存在しているのだ。
だからこそ、宗教は信じない方が合理的なのである。
別にそんなものを信じなくても生きていけるのは、人間社会を観察していればすぐに分かる。うまく生きている人で無神論者はいくらでもいる。うまく生きられない人で神仏を信じている人もいくらでもいる。その逆も然りだ。
だから、いちいち宗教に関わる必要性はまったくない。この弱肉強食の資本主義の中で最も優れているスタンスは「意図的に信じないこと」である。
なぜか。答えは非常にシンプルだ。「信じなければ騙されない」からである。
神も仏も信じなければ、お布施を取られることもないし、戒名に馬鹿高い金を払う必要性も感じないし、得体の知れない気持ち悪い教祖だか教団だかに金品を寄与する気も起きない。
霊感商法や神仏に名を借りた脅しを真に受けることもない。「地獄に堕ちる」と恫喝されても、「お前が地獄に堕ちろ」と逆に気持ちよく相手を恫喝し返すこともできる。
どのみち「信じさせて集金するシステム」なのだから、積極的に、かつ意図的に信じないと決めた瞬間に、騙される危険から外れることができるのである。
宗教が「信じる人間から金を巻き上げるビジネスモデル」と化した今、「神も仏も信じない」というのは生きていく上で基本中の基本であると言っても過言ではない。


上記の書き込み・・・
私も、常々、言う。

信じる者は、騙される。

今時の、宗教は、商売である。
上記の、書き込みの通りだ。

神も、仏も、実際は、幻想、妄想である。
別エッセイ、神仏は妄想である、を参照ください。

つまり、それらは、人間の創作したものである。

その時代性に、叶った宗教であるが、現在の宗教は、伝統宗教であろうが、商売なのである。

更に、悪いことに、それらは、貧困ビジネスと、化している。
貧困者を、狙い撃ちするのである。

豊かに暮らしたいならば、兎に角、献金、布施をすることである・・・
それが、宣伝文句。

彼らの、教えなるものは、単なる、空想の物語である。

大昔なら、まだ救いはあったが・・・
現代では、もう、無理なのである。

それでも、信じる人がいるのは、寂しいからに、過ぎない。
そして、その団体に集う人たちと、生暖かい付き合いを通じて、孤独を埋める。

だが、それが、とても、大きな悔やみを生む。

信じる者は、洗脳されるのであるから、始末が悪い。

最も優れている、スタンスは、信じないこと。
当然である。

教団、教祖は、ただ、自分のことだけを、考えている。
あるいは、お馬鹿な教祖は、それで、人助けをしていると、それも、信じているのである。

救いようが、ないという。

仏教から、キリスト教、神道・・・
新しい宗教は、それらを取り入れて、極めて、常識的に振舞う。
本当は、何も新しいものなどない。

ただ、今までの、繰り返しをしているだけである。
だから、とても、良い商売なのである。

救い・・・
実際は、何からの、救いなのか・・・
全く、不案内である。

そして、果たして、人間には、何か救いが必要なのか。
何から、救われようとしているのか。

実際、逆に、その行為は、救われない行為なのである。

信じさせて、集金する。
その、繰り返しである。

更に、信徒を使い、信徒以外の人から、集金させる、宗教もある。
実に、あくどいのである。

法外な利息を取る、金貸しよりも、悪い。
つまり、幻想を金に換えているのである。

全く、投資せずに、ただ、教えで、金を集める団体が、宗教である。

もう、日本仏教界も、壊滅する様子である。
当然だ。

皆々、その裏を、見抜いたのである。
だが、新興宗教は、健在である。

古い宗教の、エキスを頂いて、新しく、衣替えして、それを、金に換えている。呆れるほどに、愚かであるが・・・

矢張り、信じる人がいるのである。

はっきり言うが、矢張り、信じる者は、騙されるのである。