国を愛して何が悪い185

日本の中世とは・・・

ここに生じた苦悩が、窮極において死の問題につながってゆくのは当然である。ふりかえってみると、中世ほど死の問題を鋭く提起した時代はない。いやいつの時代でも死の問題はあり、思索の深められるのは当然のことだが、宗教と文学を通して、王朝末期から鎌倉時代をみると、死が「露出」してきたといった感じを受ける。
亀井

いつの時代も、死が問題になるが・・・
現代は、それを忘れている。
いや、忘れるようにしている。

中世は、仏教が、変容して、庶民の教えにまで、高まった。
鎌倉仏教である。
今も、それを引き続いている。

そして、それが、全国民に行きわたるのは、江戸時代、三代将軍、家光の時である。
キリシタン禁制の、一つの方法として、全国民を仏教の寺に登録させた。

勿論、その名残が今も続いているが、すでに衰退し、次の時代が始まる。

たとえば源氏物語の中で、紫の上や大君の死に顔が、匂うばかりに美化されて描かれているのに対して、今昔物語の出家譚の中には、愛人の死に顔がむざんに腐敗してゆくありさまを、まるで即物的に描いた箇所がある。光源氏の死が空白のまま残されたことと、その意味について私は第二部で述べておいたが、武士というものが台頭してきてから、死に方とその描写がまるで変ってきたことを注目したい。
亀井

あの、平安期の平和と、平穏さは、ない。
これは、武士の台頭によるものだと、思える。

武士とは、武力を行使する者たちである。
武力が権力として、現る時代の最初である。

勿論、古代も、武力の戦いがあったが、それとは、また、意を異にする。

同時に、念仏というものが武士にむすびついたとき、いかにいさぎよいものになるかを、平家物語は告げている。
亀井

しかし、当時は、武士だけのことではなかった。
僧の中にも、異常死による、供養という作法が流行したのである。

平安朝後期から、衆人環境の中で、焼身自殺を行う僧が出た。
或いは、生きながら、土中に埋めたり、入水したりと、自死する行為が流行したのである。

秩序が崩壊し、無政府状態におちいると、全階級層にわたって脱落者が激増するのは当然である。没落したり追放されたり、或いは荘園で食うことが出来ず、乞食となって流離し、盗賊となるか餓死する以外になかった農奴もいただろう。今昔物語の悪行譚は当時の暗黒面を如実に伝えているが、その根底にあるのはいづれも死の恐怖である。しかも社会全体にわたってそれが日常化していた乱世に、救いを焼身のような「宗教的自我」に求めたことは無理もないと思われる。激しく、狂信を迫るものが時代にあったのだ。或いは時代への怒りをあらわした憤死であったかもしれない。
亀井

藤原政権と、院政の腐敗・・・
また、南都六宗、比叡山、高野山の、二宗も、すでに仏教の殿堂ではなくなった。
僧兵を抱えた、大地主であり、勢力争いのために、流血を繰り返すことじはじである。
大寺院そのものが、恐怖の対象、存在となったのである。

そして、末法思想である。
それは、12世紀の後半、人々を襲った絶望の、表現として見ることが出来る。

根本に無常の思いはあったろうが、「欣求浄土」は喜びというよりむしろ絶望感を伴い、死への傾斜がいちじるしくめだってくる。源信の「往生要集」のなかの口称念仏の影響のうちにすでにみられるところだが、女房文学のように内攻せず、行動的になってくるのが中世の特徴である。
亀井

更に、中世は、出家し、修行するという人々の、様々なタイプが現れる時代である。
これほどの、時代は、今までにも、以後にもない。

宗教の、末路は、実に哀れである。
盛隆を誇った後に、堕落が始まる。

結局、人の心に沿うはずのものが、物欲に見舞われるのである。

抑圧していた、人間の欲望が、怒涛の如くに、現れるのが、宗教の末路である。
当時の、惨状の一つ一つを取り上げないが・・・

宗教は、基本的に、人間の妄想の所以である。
別エッセイ、神仏は妄想である、を参照ください。

為政者にとっては、宗教は、使い様である。
その捌け口にしたり、騙したりと、宗教は、応用が利く。

社会に政治のまともさがない場合、宗教は、逃げ道となり、人々は、宗教に逃げ込む。

中国共産党の一党独裁の様を見れば、宗教が猛烈な勢いで、広がる。そして、弾圧があれば、あるほど、信仰に燃える。

妄想の産物に、支配される人間の、弱さである。

したがって中世精神の形成者たる僧、聖、隠者たちとは、乱世という時代の動揺とともに、こうした内的動揺を激しく味わった最も不安定な存在であったと言える。半僧半俗のすがたをとった隠者自体、あいまいなものである。社会からはみ出した存在であり、離脱者、余計者、無用人とも言える。ある場合は無頼漢であったろう。
亀井

外的に迫られ、内的に自己への絶望である。
乱世は、以後、戦国時代まで、続く。

天下統一と言う、夢が実現されるのは、まだまだ、先の事である。

ただ今は、日本の精神史というものを、見ている。
参考文献は、亀井勝一郎著、日本人の精神史研究、による。

精神史であるから、どうしても、鎌倉仏教に触れる必要がある。
それは、批判を抑えて、事実だけを、紹介することにする。