国を愛して何が悪い187

西行は、23歳の時、出家したが、その動機が不明である。
私の知る限りでは、身分の高い女性への、恋が原因だという説が多い。

だが、私は、同じ北面の武士であった親友が、昨日は元気にしていたが、翌朝に、死亡したという事実に、驚愕し、死、というものに対する、深い認識のゆえだろうと、考えている。

思い出づる 過ぎにし方を 恥かしみ あるに物うき この世なりけり

まどひつつ 過ぎける方の 悔しさに なくなく身をぞ 今日は恨むる

濁りたる 心の水の すくなきに 何かは月の 影宿るべき

遁りなく つひに行くべき 道をさは 知らではいかが 過ぐべかりける

愚かなる 心にのみや 任すべき 師となることも あるなるものを

この、素直な心で、出発するのである。

それは、
誰かに読んでもらうために作っているのではない。自己を省み、念を押し、自己を励まし、鞭うっている。
亀井

西行の生活法を見ていると、この点も空海を模倣しているような感がある。山岳と都会との関係においてである。空海にとって山岳とは「法身の里」であり、孤独に沈潜して生死を凝視する瞑想の道場であった。その心を携えて都に還り、世間の紛糾や執着の裡に生活し、そこでの苦痛を携えて再び山岳へ還る。この環境が空海の生活法であり、「行」のひろさを裏付けるものであったが、西行も同じ方法をとっている。
亀井

出家とは、世を捨てることである。
彼には、妻子がいたが・・・
その妻子も、出家するのである。

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人そこ 捨つるなりけれ

密教、浄土教、禅、法華と、すべては「捨」の一字をめぐって生死への思索を凝らしてきたと言ってよい。そして法然のように、捨てきれないと思う心をも捨てようという工夫も生じた。
亀井

だが、そこまでは、追求出来ないのである。
それ以上になると、妄想になる。
本人に直接、尋ねる他はない。

歌を通して、何事かを、想像するのみである。

以前も書いたが、雑修をする人は、数多く存在していた時代である。
西行は、その代表的な、人物と言えるが・・・

矢張り、歌の世界から見る西行が、最も、解りやすい。

亀井は、密教を根幹とした、雑修と言う。
それは、
日本人の信仰形態と言ってもいいほど普遍的なものだが、そこに身を置いた彼がどうしてあのような強烈な個性を発揮したか。雑修の苦悩を背負った人だと述べたが、そうあらざるをえなかった原因は何か。
亀井

それは、人は、そのように、生きるべくして、生きると、言う。
生きられるようにしか、人は、生きられない者である。

それに対して、根掘り葉掘りと、詮索するのは、評論家の陥りやすい、性格である。

西行の、精神は、当時の精神を映したものとして、認識する。
その時代だから、こその、歌である。

時代性と、時代精神を無視することは、出来ない。

人も見ぬ よしなき山の 末までに 澄むらむ月の 影をこそ思へ

行方なく 月に心の すみすみて 果てはいかにか ならむとすらむ

ともすれば 月すむ空に あくがるる 心のはてを 知るよしもがな

ながむれば いなや心の 苦しきに いたなく澄みそ 秋の夜の月

哀れ哀れ この世はよしや さもあらばあれ 来む夜もかくや 苦しかるべき

当時の、月に関する、思いは、特別なものである。
月は、仏の光とも、思われた。

夜の闇の、月の光は、当時の明かりである。
特別な思いを抱くのも、頷ける。

だが、後に、建礼門院右京が、星空を読む歌がある。

更に、月には、恋、法などの意味もあった。
現在の人が月を眺めるという、心境では、計れないものである。

古今も、新古今も、月には、そのような意味が多数である。

西行が、日本の精神史に与えた影響は、ただ、息を吐くように、歌詠みをしたということだと、私は思う。
もう一人、和泉式部がいる。

それは、日本人であれば、当然、歌詠みをするという、当たり前のことに通ずる。

歌詠みは、限られた人のみにあるのではない。
日本人であれば、誰もが、歌を詠み、そして、歌を理解するのである。

日本の歌を、外国語に、翻訳することは、不可能と思う。
勿論、翻訳して紹介する人たちを、否定しない。また、尊敬する。

心から 心にものを 思はせて 身を苦しむる わが身なりけり

まどひきて 悟りうべくも 無かりつる 心を知るは 心なりけり

ましてまして 悟る思ひは ほかならじ 我が嘆きをば われ知るなり

こういう「心」を私は自力修行者の地獄と呼ぶのだが、ここに堪える彼の逞しさは無双と言ってよい。一方に悟りがあり、他方に迷いがあって、その間に動揺したのではない。さきに述べたように、「能く迷い能く悟る」というその連続、或いはその永久性に生きることが彼の体得した精神生活であった。
亀井


歌に対する、解釈、理解は、人それぞれである。
そして、それで、いいと私は思っている。

ただ、問題は、歌詠みする、そして、歌をまた読むという行為である。

日本人に与えられた、恵であると、考える。