国を愛して何が悪い189

法然が、専修念仏に帰したのは、安元元年、1175年、43歳の時である。

13歳で、比叡山に入ってから、実に、30年間が過ぎている。
そこでは、あらゆる経典を読み、自力の限りを尽くして、雑修を積み重ねてきた。
学問においても、当時、比叡山では、第一の秀才だった。

そういう彼に自己否定を迫ったものは何か。今昔物語にも示されたような破戒と挫折を、彼はくりかえし周囲にみてきたであろうし、自己の内部にもその危機を実感したであろう。同時に乱世によって「死」の凝視を迫られたであろう。それにも拘わらず執着のかぎりをつくす人間の「罪」の自覚が伴ったであろう。そして最も重要な点は、「死」と「罪」の前に、あらゆる自力修行の空しさを経験したにちがいないということだ。
亀井

確かに、当時の状況を見ると、危機意識を持つ。

寺院も学問も教養も戒律も、一挙に崩れるような絶望の状態を、法然は自他において確認したであろう。
亀井

つまり、変革の時代性である。
このままでは、ダメだという、意識。

そして、法然は、何と、その以前のすべてを、捨てた。
捨てるということは、つまり、否定である。

自力修行も分別もすて、ただ弥陀の本願に摂取されるという他力信仰の根本は、弥陀の四十八願の中の第十八願に発する。浄土教は程度の差はあっても、すべてこの第十八願をめぐって展開したと言ってよい。
亀井

その願である。
もし我仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽し、我が国に生ぜんと願じて乃至十念せんに、若し生ぜずば正覚をとらじ。唯五逆と正法を誹謗することをば除く。

我が仏となるために、すべての衆生が信じて、我が国、つまり、極楽に生まれなければ、我は、仏にならない。
という、阿弥陀の願である。

余計なことを言うが、この阿弥陀の経典は、人間が書いたものである。

それは、創作である。
だが、当時、経典は、真実だった。

法然は、その願に、賭けたのである。

ところで念仏往生が弥陀の本願であるとしても、なぜそこにのみ信仰を限定するのか。救いを限定するのか。奈良六宗や密教や禅や法華経によっても救われるはずではないか。こうした疑問は源信の時代からくりかえされてきた。いやどんな時代でも、或るひとつの信仰を確立しようとするとき、なぜそれのみが絶対的なのであるかという疑問の起こるのは当然である。同時に、その信仰を説く方も、それを唯一のものとして強調するから、そこに当然宗教論争や様々の疑惑が生ずる。法然も生涯にわたって問いただされていたことは、多くの問答集から推察できる。
亀井

法然は、書き物を残していないが、弟子たちが、聞き残して、書いた、選択本願念仏集には、往生のためには、様々な修行方法があるが、大事なことは、一切の衆生を平等に救うということだ、とある。

その内容は、省略するが、書かれたことは、伽藍仏教の否定である。
更に、出家と在家、聖人と凡人の、区別もなし。
当時の、僧、貴族階級の否定。
そして、驚くべきは、仏教そのものに対する、否定にまで至るのである。

私は、その他に、女性の救いを上げていることが、驚きである。
日本初の、男女平等を説いたのである。

これは、説明するには、多くの言葉が必要であるが・・・

「自余の諸行、これに準じて知るべし」とあるから、さきの第十八願以外のものはすべて拒否するか、第二義的なものとみなしたことがわかる。つまり貧窮者、愚鈍の者、無智の者、破戒者と、そこえ法然の眼は向けられたということだ。それは一切衆生を救うための本願の然らしむるところであり、同時にその反面にあるのは、救われ難い存在としての凡夫の自覚である。
亀井

まさに、宗教改革である。

妄念、妄想、執着から離れるのではない。離れようとしても離れえないその状態のままで念仏せよと教えたのである。したがった念仏とは妄執との日常的な格闘の状態なのだ。そこでの専心易行である。「形」は易行で、実は妄執の地獄の自覚を伴う内的苦行と言ってもいいかもしれない。法然の宗教改革とは、ただ既成宗団の腐敗にのみ向けられたものではない。自己の内的危機への格闘を根幹としたということが重要である。
亀井

これは、日本の仏教の、更なる、日本化である。
新しい、宗教と言ってもいい。

仏教に名を借りた、新宗教である。

だから、本来は、法然宗と呼べばいいのだ。
仏教の一派としての、浄土宗を超えていると、私は思う。

中世の一大事である。

当然、迫害が起こる。
法然の弟子、安楽と、住蓮が死罪になり、法然と親鸞が、流刑に処せられたのは、承元元年1207年、法然、75歳の時である。

延暦寺、興福寺から、念仏禁止の訴状が、朝廷に提出されていた。
既存の仏教会からは、当然、批難の声が上がるだろう。

「ただ念仏」をのみ中心として、菩薩道の一切を否定し、他の修行を群賊にたとえたことなどが、当時の宗教界を甚だしく刺激したのである。とくに持戒持律の厳守を新しい形で提起した道元との対立、また法然を全面的に否定した明恵や日蓮など、「選択本願念仏集」のもたらした波紋は鎌倉時代の全体に及んだと言っても過言ではない。
亀井

新しいものは、いつも、批難、批判される。
当然である。
既存の地位を、危うくする。

それは、当然、法然も知っての事。
大した玉である。
そして、現在は、如何様になっているのか・・・