国を愛して何が悪い193

私は歌の範囲内だげに限って言うのだが、王朝から中世へかけての精神の複雑な動きを見る上には、新古今集は必ずしも適切ではない。一旦これを解体し、その前後に成立した各人の家集から出発しなおした方がいいと思う。・・・
亀井勝一郎 現代文は私

新古今集に、最も多く採用されているのは、西行の94首、女性では、式子内親王の49首、藤原俊成と共に、千載集時代の人と言うが、ここに重点を置き、次に、藤原定家等、選者の歌を取り入れている。

これより前の、平安時代の人としては、紀貫之が32首で最も多く、次が、和泉式部の25首である。

歌風の尊重の仕方に、致命的ともいえる偏向があった。王朝の女房文学から、中世の僧や聖の信仰、隠者の文学へと、この過渡期における精神の重要な課題が、どのように接続し或いは変化して行ったか、そこにみられる生死の不安や苦悩の直截な表現を異端視した。これが新古今集の最大の欠陥である。
亀井

そこには、藤原定家のこだわりがあると、私は見ている。

そして、後鳥羽院の強いも個性である。
その二人の、強い個性と、その対立である。

亀井は、王朝から中世の接続してゆく時代の精神は、中世初期における、西行と法然を挙げている。

「たゆたう心」の果てまでの西行と、「菩提かなえたまえ」という嘆きに対して、徹底的に応えようとした法然である。

女房文学の継承を、定家流の美意識にのみ、限定してはならないとの、亀井に賛成する。

この、定家の美意識・・・
これが、混乱の元である。
それは、虚構の美しさとも、言える。

新古今を嫌う訳ではないが、あまりにも、作るという意識が強いのである。

万葉、古今、新古今と、歌集として、この三つを並べる文学史の常識を捨てるべきである。

万葉集は、全く別の世界である。
更に、それは、400年に渡る、古代人の複雑な精神生活の所産である。
歌集の形をとるが、それは、同時に、信仰の書、歴史の書、民俗の書である。

古今と、新古今とは、同じく、歌集として、並べられないのである。

更に、歌のスケールが、全く違う。
古今、新古今は、そのスケールが、いちじるしく狭くなる。

歌集は優雅に巧緻になったことはたしかだが、万葉集の「民衆詞華集」から漂ってくる土や牧草の香りなど、野生は全く消え失せる。集団的に歌われつつ推敲されるといった民謡的正確も消滅する。歌の背景は宮廷のサロンになったのである。
亀井

勅撰集は、天皇の詔による、神聖な歌集である。
選者のあり方は、儀式である。
宮廷風の、佇まいを重んじたことは理解するが、万葉集の伝統とは、異質の存在である。

さて、その新古今の内容だが、その範囲内でも、かなりの偏向がある。

抒情形成における野性を無視したように、思想形成における野性をも無視したのだ。換言すれば、大まかな言い方だが、「人生派」風の作品を軽んじて、「芸術至上」風の作品を過大視したということである。
亀井

つまり、新古今においては、歌は、宮廷における、高度の美的悦楽と化したのである。

観念の栄華に耽溺してゆく、遊戯となったと言える。
亀井は、遊戯という言葉を軽く考えるのではないと言うが・・・

それは、
乱世の死に直面しての遊戯であり、それだけの理由があったのだ。
亀井
と、言うことである。

そりれだけの。理由とは・・・

中世におけて、信仰のための遁世出家が盛んだったように、美のために、遁世出家が、歌創りという形で、行われたと言うことだ。

だから歌作は、美のためのきびしい修練をめざす一種の「行」の世界となった。王朝末期から中世へかけて、おびただしくあらわれた歌論とは、要するにその秘儀の書である。
亀井

「歌とは何か」「歌のよしあしとは何か」それを意識過剰と言っていいほど追求し、窮したあげくに、修練からくる「感じ」によって微妙な美的規準を設定したのが俊成や定家である。語り難いことを語ろうとして、彼らはどんなにもどかしい思いをしたか。
亀井

つまり、歌の生成発展の、要に到達したともいえる。
だが、はたして、それは、正解だったのか・・・
いや、正解も、不正解もない。

時代性と、時代精神の問題である。

考え過ぎたことは、悪いことではない。
現代も、短歌の作家が、手直しをする。
果たして、手直しをすることが、正しいものかどうか、解らない。

勿論、それは、今の時代性も、時代精神によるものであろうが・・・
もし、そのままにして、残したら、後世、名歌といわれる場合もあるだろう。

手直しが、悪いという意味ではない。
だが、時代は、古今も、新古今も、超えている。
この、超えるという感覚、である。

生成発展を阻害することは、出来ない。
それが、時代性であり、時代精神である。

精神史を見ることは、今を見るということでもある
つまり、精神史は、今の、時代精神を観るということになるからである。

正邪善悪の、価値観ではない。
歴史を、俯瞰するという、精神である。