現代人のセックス追求も絶望のあげくのいのりではないのか。頼れるもの、頼るべきものが何もないとき、人は異性を神として相手にしがみつく。現代人にとって性は聖なる原点なのだ。
性を猥雑化するのは性の狭小化にすぎない。ささやかにくりかえされる性の頂点が生の頂点であるかのように、われわれは今日もかく生きてゆく。
小原 改行は私
暗示的、文である。
すでに、人間は、年を重ねて、家を出、国を出て、異邦人になっている。
それは、生まれた場所に生きていたとしても、である。
それが、定めなのである。
ふるさとを、失うという、定め・・・
人は、祈る。
祈りを知らぬ人も、祈るのである。
それは、思い、である。
何かへの、思い。
その思いを抱いて、生きている。
勿論、そんなことに、構わずに、金を追い求めて、疲れ果てる人もいる。
金を得て、成功者と言われる人もいる。
だが、皆々、死ぬ。
死ぬことが、生きることを、支えているとは、考えないのである。
いずれ、日本の精神を、深く見る際に、これについては、書く。
小原氏の、現代人の時間信仰、を、終えるに当たり、最後になる。
ゲバルトによる反抗とその挫折、風俗革命としてのヒッピーやフーテン、性と生の同一視の傾向、旅による昇華の試みーーーこれらの有言、無言のいのりを通して、人々はいま何を創りつつあるのか。いまわれわれに求められているものは、たんなる否定ではない。アナーキーな破壊でもない。否定が肯定に結びつき、破壊が建設につながってゆく「創造的な否定」である。
真に創造的な生き方は「創造的な誠実」を生み、「創造的な倫理」を生むであろう。私自身は現代人がこのいまの混迷から脱出できるみちは、既存の「神」や、形式的・固定的な「倫理」から自由な、しかし「状況」のなかで責任を負う主体となることであり、そのための生き方として、いわゆる「状況倫理」を新しく考えてゆきたいと思っている。
小原 改行は私
つまり、新しい生き方である。
全く、新しい生き方・・・
それは、詰まるところ、今までの、人生の意味付けでは、生きられなくなった、現代人ということである。
それは、時代性と、時代精神が、進んだからか・・・
進歩し、発展したからか・・・
あるいは、何かが、後退し、衰退したからか・・・
時間の有化から無化へーーー私の死の自覚としての緊張ーーー祈りから創造へーーー。だが、これ以上を語ることは、もはや理性的な言語による翻訳の限界を越える。それは、よりどろどろした生の深海についての巫女の口寄せとなるであろう。
小原
つまり、小原氏も、日本人であるということだ。
日本の哲学、思想、倫理等々は、すべて欧米からの、輸入物である。
そして、学者は、それを紹介する、単なる紹介者となっている。
日本の精神を、語った人は、西田幾太郎程度だろうか・・・
勿論、言論人としては、多く存在するが・・・
哲学という、分野で、西洋の哲学を超えて、日本の精神による、哲学を見出そうとした人物は、西田幾太郎だろうと、思う。
しかし、鎌倉時代の、仏教思想家は、沢山存在した。
日本にも、哲学、思想は、存在していたのである。
ただ、欧米の哲学、思想、倫理その他諸々を、崇高なものとして、扱う、馬鹿者たちが、大勢いたことは、確かである。
今も、勿論、存在する。
兎に角、欧米の考え方に、惹かれる。
そして、紹介者が、大学などで、堂々と、何やら、解った様子で、語る。
小原氏は、倫理学、哲学の教養と、キリスト教に造詣が深い人である。
この書籍の題名は、状況倫理の可能性、というものである。
その中から、取り出して、紹介した。
こうして、語る人は、ご苦労なことである。
だが、日本人として、日本の精神を深く、更に、深めて、追及しない哲学、哲学者は、単なる、通訳と同じである。
ましてや、それに、命を左右される程の、ものではない。
生きるに意味などない、と、言い切れるほどの、ものでもない。
更に、生きるに意味があると、信じている、信者である。
無神論者でさえ、祈る。
更に、何かを信じている。
実に、馬鹿馬鹿しいことだが・・・
本当である。
宗教は、アヘンであると言う、共産主義も、すでに、信仰に陥るのである。
呆れる。
これから、徐々に、日本の精神における、哲学、思想の中に入って行く。
それは、死ぬことを前提にした、無、を前提にした、哲学、思想である。
それは、生きるに意味などない、という哲学であり、思想である。
ただし、ここでの、無、とは、仏教で説くところの、無、ではない。
あちらは、単なる時間の暇潰しの、言葉の数々である。
別エッセイ、神仏は妄想である、を、参照ください。