前回からの、続きである、時間というもの・・・
日本の哲学を作り上げたと言われる、西田幾太郎について、実に、解りやすく解説した本がある。
佐伯啓思著、西田幾太郎、副題は、無私の思想と日本人、というタイトルである。
おおよそ、副題で何が書かれているのか、解る。
私は、その著書から引用しつつ、私なりの、日本の精神を書く。
つまり、生きるに意味などない、というお話しである。
日本人は、昔から、そのように考えていたと、私は考えている。
さて、その著作の、第十一章、「永遠の今」と無始無終の時間、である。
明治44年1911年、夏目漱石は和歌山で「現代日本の開化」と題する講演を行いました。漱石の文明観を示す名高い講演ですが、このなかで漱石は、文明の開化とは人間活力の発現だといいます。そしてそこには二つの種類の運動がある、という。
ひとつは、活力節約の方向で、できるだけ楽をしたいと思う。そこで人は農耕機具を発明し、動力機械を発明し、鉄道や自動車を生み出しました。もうひとつは活力消耗の方向で、いってみれば楽しみ・快楽を貪欲なまでに求めようとする欲望です。できるだけ遠くへ旅をしたいと思う。もっとうまいものを食したいと思う。やがては、ただ海で泳ぐだけではなく、スキューバダイビングをしたいなどと思う。
佐伯
夏目礎石の、文明に対する、考え方である。
そして、実は、非常な危機感に捉われていた。
活力節約と、活力消耗との、両者が複雑に交錯しあいつつ、文明を進化させたのである。
だが、節約も、消耗、つまり、欲望も、加速度を上げて、離陸すると、近代というものは、行方も知らず、飛び続けるしかない、という。
これは、十分、今、現在の状況である。
ところが活力の節約や楽しみを求めて始まったはずの文明が、いつのまにか人々を競争に巻き込み、あくせくと引きずり回す。
佐伯
と、いうことで・・・
開化が、かえって、生活を窮屈にし、苦難を増大させる。
文明がもたらす、矛盾である。
その、矛盾に気づかないうちは、いい。
だが、気づく人もいる。
漱石にとっては、ここにもうひとつ無視できない事情がありました。それは、日本の場合、この文明進歩が日本人自身の意志で行われたものではない、ということでした。
佐伯
つまり、西洋のそれは、その歴史に中で、自然に生じたもので、日本の場合は、西洋の衝撃を受けて、外から入って来たものである。
だから日本の文明進歩は常に上滑りで、その上滑りを止めようとすると神経衰弱になってしまう、という。
佐伯
そして、日本人は、神経衰弱になった。
それも、自覚のない、衰弱である。
佐伯氏は、
そりよりも、なぜこのような文明の進歩が日本人にはなじまないのか、どうしてわれわれはそのなかで神経をすり減らしてしまうのか、そのことを少し考えてみたいのです。
と、言う。
そして、実に、丁寧な説明をしてゆく。
西田幾太郎の哲学は、難しい。
そして、多くの人は、それに触れないで、知らないで、生きることが出来る。
だが、今、それを持ちだすのは、日本の精神を考えるために、必要だからだ。
そこに、何かの、手掛かりがある、という考えである。
もし、西田幾太郎の哲学入門となれば、私も諦める。
私は、佐伯氏が書いたものを、おおよそで、紹介しつつ、話を進めることにする。
早く、多く・・・
兎に角、急ぐのである。そして、兎に角、多くの情報を得るのである。
それは、つまり、
より豊かになりたい、より便利で快適になりたい、より自由になりたい、という欲望です。今日、われわれはそんなことはしごく当然で自然の欲望だと思っています。
佐伯
当然で、自然な欲望・・・
そうなのである。
これが、最も危機的、危険なのである。
それが、当たり前と思う。
子供の頃から、当たり前に在るもの・・・
何でも、手に入ると、妄想する。そして、手に入れる。
妄想が、実現出来るのである。
そして、その、妄想の中に浸る。
例えば、私は、東南アジアの国を回る。
日本の道路は、大半が舗装されている。
しかし、貧しい国では、土がそのままである。
バスに乗る。
乗っていられないほど、疲れる。
もう、死にそうになる。
だが、日本では、舗装されていて、当たり前なのである。
水・・・
水道の水が飲めない。
飲む水は、買う。
非常に不便である。
すると、私は、日本が最高の国と思う。
だが、問題は、そんなことではない。
いずれ、貧しい国の道路も、舗装されるだろう。
それを夢見る。
日本に旅に来た、貧しい国の人は、いずれ日本のような国にと、思う。
それは、いつか、そうなる。
だが、問題は、そんなことではない。