佐伯
いつからか・・・
そのように、考える癖がついた、人間である。
それが、人類の進化、進歩、生成発展という、考え方もある。
いうまでもなくアメリカという国がこのような信念を代表してきました。子どもの世代は親の世代よりももっと豊かになり、もっと快適になっているはずなのです。移民としてやってきた親の苦労の上に子どもたちの生活がのり、その上にまたその子どもたちの幸福がのっかる。こうして「独立宣言」に謳われた「幸福追求の権利」と、子孫へと受け渡され、世代を超えた富の獲得こそがアメリカン・ドリームとなりました。
佐伯
その通りだ。
だが、現在のアメリカは、違う。
もう、限界なのである。
つまり、大きく分けて、左派と右派の、戦いである。
更に、格差社会で、持つ者と持たぬ者との、戦い。
実際は、内戦状態なのである。
何故か・・・
もう、その考え方が、限界なのである。
しかし、新しい、考え方が現れず、過去をまだ、夢見ている。
過去はすでに、幻想であるにも、関わらず、である。
そして、
アメリカのみならず、戦後の日本もまた、このアメリカン・ドリーム方式を日本化することで急成長したのでした。われわれもまた、昨日よりも今日はもっとよい生活をし、豊かになるはずだ、という成長型妄念に突き動かされてきました。・・・
佐伯
ビルが立ち並び、大都会は、物で溢れ、空前のグルメブーム。
日本の食料自給率は、40%前後であるが、その半分に近い数字の、食料が破棄されているという、現実。
モノを生み出すことにこれほど貪欲であり、モノを破棄することにこれほど頓着しない国民もそうはいないでしょう。われわれはどうしてこんなに無様になったのでしょうか。
佐伯
この、無様、ブサマ、である。
行為に対する、蔑称である。
その、無様にも、気づかないのである。
これを、万事休す、と言う。
勿論、そのな中でも、生きるに意味があると、信じている。
呆れる。
誰一人たりとも、この世に必要な人は、いないのである。
私なども、今すぐに死んでも、いいほどの存在である。
この存在の軽さ・・・
その、軽さを知らずに、無様に生きている人間の、有様。
実は、これを、無常というのであるが・・・
話を続ける。
漱石は、西洋では開化は内発的に行われる、といいました。かくて「進歩」という観念が西洋で生み出されたのは分かりやすいことです。
「進歩」という観念の背後には、過去、現在、未来へと突き進む直線的な時間の意識がなければなりませんが、西洋で、この直線的な時間の観念を明瞭に生み出したものはユダヤ・キリスト教だといってよいでしょう。・・・
佐伯
つまり、神が、時間を創ったという観念である。
時間も、世界も、神が作り出した・・・
ですからそれを作った「神」は時間の外にいる。もちろん「世界」の外にいます。この時、時間の始まりがあれば、終わりもあるでしよう。時間の終わりとはこの世の終わりです。ここの終末論がでてきます。最後の審判が下され、すべて決着がつけられてしまいます。
佐伯
実に、呆けた、考え方である。
勿論、今は、状況が違っている。
ところが、近代も進んでくれば、もはや誰も簡単には神など信じなくなりました。こうなると深い信仰に代わって、軽い利己心が支配し、禁欲は強欲へと変わってゆく。しかし、ユダヤ・キリスト教が生み出した直線的な時間意識だけは残ってしまうのです。それは、もはや、歴史の終着点も最後の時もなく、ただひたすら前方へ向かって前進する時間です。かくしてほとんど無目的のままに時間軸の上を疾走するほかないのです。
佐伯
もう少し前は、この時間の先に、終わりが、目的があった。
ユートピア、共産主義・・・
理想社会の到来が、最終到着予定地。
ここでは、人が神の位置に座って世界と歴史を見渡し、最後はユートピアを建設するはずだったのです。
佐伯
ところが・・・
何もない。
ユートピアも、共産主義も、夢と消えた。
すると、ロケットは打ち上げたけれども着地点はなく、ただただ無限に飛び続けなければならない。こうして無限に富を蓄積し続けるほかないのです。
佐伯
つまり、意味付けの、崩壊である。
何一つ、意味がなかったのである。
すべて人間が、作り上げた、幻想、妄想の世界だった。
それが、在る、と信じた。
信じる者は、確実に、騙される。
何一つ、意味などなかった。
意味付けは、失敗したというより、そんなものは、本当はなかったのである。
無・・・
気の毒である。