生きるに意味などない114

ユートピアも、共産主義も、大嘘だった。
何一つとして、人間は、変わらないのである。

ただ、進歩発展した文明の中で、更に、それを追い続けて、今、力尽きようとしている。

人間の頭の中で、捏ね繰り回して考えたこと・・・
すべてが、幻想、妄想だった。

その時代性に合った、哲学、思想、宗教などはあるが・・・
それも、時を経ると、色褪せる。
更には、否定される。

そして、意味だと思っていたことも、変容するだけではなく、誰も、受け入れなくなる。

日本の場合を考えただけでも、多数ある。
鎌倉仏教から、日本の新仏教が始まり、それが、今では、瀕死の状態である。

西洋から取り入れた、哲学、思想も、その紹介者は、紹介者だけに終わり、何も生まずに、平然としている。

だが、何故か、無限に飛び続けるという観念に、犯されている。

ここにあるのは、一種の強迫観念といってよいでしょう。それは無限に活動を続けてゆかなければならないという強迫観念なのです。それを西谷啓治は「無限衝動」と呼びました。とにかくも延々と何かをし続けなければならない。これは無限というものが生み出した「負荷」だというのです。何かをやり続けなければならないというのは恐るべきことで、たいへん重荷です。もしも無限に生きつづけなければならないとなると、誰もがぞっとするでしょう。この果てしのなさ、キリのなさ、つまり無限性こそが、成長しなければならないという重荷、つまり強迫観念を生み出した。それが「無限衝動」だというのです。
佐伯

だから、私は言う。
死ぬことが、人間の救いなのである。

無限に生きるなどということが、無いから、安心して生きていられるのである。

死ぬからこそ、人間の救いがあるのである。
救い、とは、死ぬことなのである。

そして、生きるに意味を、多く求めないことである。
それは、生きるに意味などない、からである。

話は、これからである。

もちろん「無限衝動」は人間の生そのものの業ともいえますが、それでも西洋ではこれは著しく、それもこれも、神によって作り出された時間から神を抜き去った結果といってよいでしょう。無限に続く直線的な時間だけが残ってしまったことの帰結なのです。
佐伯

そこで、西洋では、その死を迎えようと、移民の受け入れを始めた。
自殺願望である。

何せ、民族の大移動は、今のものを、崩壊させ、新しくなるという、息吹である。
キリスト教圏の中に、大量にイスラムの人々を、受け入れるという、自殺行為である。

もう、限界なのである。
だから、消滅願望により、移民受け入れが始まった。

民族の大移動が、大国を滅ぼし、新しくしたことは、歴史を見れば、歴然としている。

更に、キリスト教圏の、神不在の有様である。
もう、神は、存在しないのである。

その、キリスト教の救いも、嘘だった。
ユダヤ教は、まだ、キリストを待っている。
呆れたことだ。

更に、多くの宗教の嘘、偽りは、甚だしい。

われわれは通常、時間というと、紙の上に延々と延びる一本の直線をイメージします。これを横軸にして、縦軸にたとえばGDPの値をとり、この10年間で経済がどれだけ豊かになった、などというのです。昨年より今年はGDPが増えたといういって騒いでいる。直線上で時間は数量化され、計測可能となって比較されることになる。こういう話を永遠に続けていかなければならないのは、いささかうす気味悪くないでしょうか。
佐伯

誰も、それには、気づかないでいる様子である。

馬鹿な経済学者、評論家たちの話を聞いて・・・
薄気味が悪いと、思っていないのである。

果たして、永遠に、上昇してゆくものが、この世にあるのか・・・
日本には、上を見ればキリがない。下を見ても、キリがない、という言葉がある。
だから、身の程を知って、生きる。

ところが・・・
永遠に、金を得て、永遠に、富裕層として、生きると考える人たちがいる。

勿論、私は、それらの人たちを、否定しない。
確実に、死ぬからである。

かくて無限の経済成長、自由の拡張、富と幸福の追求、世界のグローバル化といった今日の神話は、時間と世界を作った絶対神を前提にするユダヤ・キリスト教的な思考の世俗化といってよいでしょう。近代にはいって「神」を抜き取られ、この構造だけが残ってしまった。そして近代化とともに、われわれすべてがこの不気味な構造に投げ込まれたのです。世界は生産されるモノであふれ、それでもわれわれはモノを捨ててまたモノを作り続ける。いったい何のために?
恐ろしい世界というほかありません。
佐伯

佐伯氏は、まともなのである。
この世界を、恐ろしいと、言うのである。
本当に、恐ろしい、世の中である。

無限衝動に、突き動かされる、永遠の運動・・・

漱石のいう活力と消耗が相互作用して、もはや「進歩」と名付けることもできない文明の自動運動が生じてしまったということなのです。
佐伯

自動運動の中で、生きている。
これでは、もう、ご苦労さん、である。

どこかで、留まり、もう一度、日本の伝統、日本の精神を振り返る時期がきている。
そのために、このエッセイを、書いている。