生きるに意味などない115

象徴としての、経済である。
この経済の、無限の成長は、本当に人間が求めていたものか・・・

漱石が述べたように、それはわれわれの神経を実は逆なでしているのではないでしょうか。
「神」を設定すれば、時間は始まりと終わりがありました。そこで「歴史」ができたのです。「神」は歴史の主宰者でした。だが「神」が姿を消すと、ただ始まりも終わりもない、しまりのない一本の直線のような時間だけが残ってしまった。
佐伯

だが、日本の精神は、違う。
それは、西洋、欧米の考え方、ユダヤ・キリスト教の考え方である。

西洋ではかくして過去、現在、未来と永遠に運動してゆく一直線の時間が延々と続き、「無限衝動」がそのまま作用する。永遠とは、この無限の彼方にあるものなのです。しかし日本文化や日本の思惟にとってはどうでしょうか。もともと一本の直線という時間意識などどこにもなかったのでしょう。まして時間に始まりと終わりがある、という方がどこかなじめません。・・・
佐伯

つまり、日本人の意識には、時間の始まりも、終わりもないのである。

「古事記」でも、混沌が固まり、名もなく、形もない中から、天地が分かれ、そして三神が、現れた。
イザナギ、イザナミの国造りは、その後のこと。

そこには、ユダヤ・キリスト教の神のような、絶対的な創造神はいない。

日本の思惟、あるいは、日本に融け込んだ仏教思想には、この世の、創造も終末もない。

われわれはどこからやってきて、いずこかへ去ってゆく。そのことの繰り返しなのです。
佐伯

かくて西洋と同じ意味の歴史という観念もありません。日本では、歴史とは、そこには壮大な意味が埋め込まれた巨大な舞台というより、ゆく川の流れのごとくに次々と時が去ってはまた来る、といった趣のものなのです。
佐伯

趣・・・おもむき、である。
実に深い言葉である。

何々という観念ではない、趣・・・

したがって、この無始無終の時間を表象するのに、われわれは、無限に伸びる一直線ではなく、むしろひとつひとつの瞬間を取り出しました。なぜなら、もしも時間に始まりも終わりもなく、したがって、時間の流れの全体(それが歴史です)には特別な意味がないのだとすれば、大事なのは、今ここでの瞬間だけだからです。一瞬のその「時」だけが意味をもつのです。「時間」とは、せいぜい、この「時」と「時」の「間」ということになります。「時間」より前に「時」があるのです。
佐伯

日本の精神には、間合いという、とても重要な「間」がある。
この、間合いに、日本の精神は、何事かを見出した。
それは、意味ではない。

西田幾太郎はしばしば、ただ「今」しかない、といいます。「今」という「時」だけがすべてなのです。過去も未来もないのです。しかしそれはまた同時に過去でもあり未来でもある、という。どういうことなのでしょうか。
佐伯

これは、日本の精神が、縄文期から、培ってきた、日本人の心性である。

今、この瞬間にのみ、生きる。
生きている。
そして、生かされている、と感じ取る、人生力である。

佐伯氏の説明が、面白い。
西洋の時間はもともと「神」が生み出した。「神」が抜ければ、そこに一本の無限の直線が残った。単純化していえば、これが西洋の時間意識です。だから、人間を離れて、一つの抽象的で客観的な時間というものがある。戦ったり愛したり創作したり、という人間の活動はすべてこの客観的な時間という舞台の上でなされます。舞台が移り変わることで、そこに過去や未来という意識もでてきます。
と、言う。

明治維新と、大東亜戦争後の日本は、特に、西洋を優先して、その考え方を、求めた。
西洋が、優れているとの、意識である。

それによって、日本は近代化した。
それは、西洋を真似る、ということである。

ところが・・・
その西洋を紹介した、皆々、特に学者たちが、日本の精神を知ることなく、西洋の哲学、思想その他、諸々を日本にあるものより、より優れて正しいと、教えた。

教えることは、悪いことではなかった。
ところが・・・
それにより、日本の精神を、忘れた。

特に、敗戦後は、酷かった。
それは、アメリカ占領軍の政策もある。

兎に角、日本のものは、すべて、悪い。誤りだという、観念である。
それは、付ける薬が無いほどだった。

ただし、救いは、ユダヤ・キリスト教の観念が、定着しなかったことである。もし、それが、定着していれば、本当に日本は、滅亡していた。

そして、今、敗戦から、73年を経て、少しばかり、日本の精神に目を向ける人たちが現れた。
特に、若い世代である。

日本には、伝えるべきものが、数多くある。
それが、救いである。
何せ、生きるということは、伝える、ということと、同じだからである。

唯一、生きるに意味があるとすれば、伝えるものがある、ということである。

民族の精神は、言葉である。
日本語である。
そして、その日本語は、大和言葉から、理解されるべきである。

漢字の分析をして、云々しても、始まらない。
仏典を、漢字で解釈して、仏教が滅んだ。
もし、大和言葉に、翻訳していたら・・・
それが、免れたかもしれない。