神仏は妄想である518

神仏は妄想である
第二部として、書き始める。

第一部の終わりは、とんでもなく、大変なことだった。
意味不明の、龍樹の哲学、思想である。
というより、屁理屈の極みを、紹介した。

もう、仏教というより、議論のための、議論であった。
書いていた私も、良く解らない。
読む人も、良く解らない、お話しだった。

私が、神仏は妄想である、を書いて、大半の宗教の信者から、嫌われたことだろう。
本当のことを、言われると、怒るのが、人間である。

しかし、本当のことを言う。
神仏は、妄想である。

さて、引き続き、仏教から始める。
勿論、このエッセイは、終わらない。
未完である。

キリスト教などの神学について、書き始めると、死んでも、終わらない。
呆れるほどの、屁理屈の世界が広がる。

また、神学が、学問の中に入っていることが、実に、おかしいのであるが。

奈良の仏教から、新しい仏教の本山を作った、最澄がいる。
天台宗という。

最澄は、唐に出掛けて、最新の仏教を学んだが・・・
実は、嘘だった。
それは、仏教という名の、嘘である。

最も、当時は、仏教が、学問の一つである。
哲学、思想の骨格の無かったと思える日本に、医療までの知識を持って、凱旋したのである。

仏教とは、当時、すべての学問だった。
勿論、儒教、道教も、すでに入っていた。

中国は、当時、最新の文明国である。

だが、仏教は、中国では、発展しなかった。
それは、一時的なものだった。

仏教の名で日本に来た、老荘思想は、禅として、存在している。
老荘思想を抜きにして、禅を語ることは出来ない。
しかし、語る馬鹿者がいる。

ただし、禅は、現在でも、少しは力がある。
理屈の好きな人たちの、愛好会がある。

その他の、仏教は、終わった。

私の、宗教遍歴を少し書く。
父方は、浄土宗である。
母方は、こともあろうに、天理教である。

子供の頃は、両方に出掛けた。
面白かった。

そして、中学、高校と、カトリックの熱心な信者である。

その伏線は、小学四年生にある。
図書館から本を借りる事が出来たので、私は、世界の偉人伝を読み続けた。
そして、高学年になると、また、高学年向けの、世界の偉人伝があり、その中で、イエス・キリストを読んだのが、きっかけである。

そして、六年生の時、犬養道子の、聖書物語を読んだ。
それで、決定した。

教会へ行く。
地元の教会が、カトリックだっただけである。
もし、プロテスタント教会だったら・・・

恐怖の、クリスチャンになっていた、かも。

ちなみに、世界の偉人伝では、数多くの偉人伝があり、多くの偉人たちを知ったのである。

そうして、今の、私がある。
偉人にはならない、私である。

そんなに、偉くなれないと、思った。
ただ、勇気は、与えられた。
死なずに、生きる、勇気である。

中学生の頃から、身近な人の死に、多く出会った。
そして、死を考えた。
すると、宗教が出てくる。

だが、死を考えるものは、宗教だけではなかった。
それが、救いである。

文学があった。
芸術があった。

だが、今も、死なずに、生きている。
そして、死ぬ時は、自害である。

なまぬるくは、生きない。
死ぬ時節が来たら、死ぬ。

死ねば、霊になる。
ただ、それだけのこと。

天台宗から始まった、法華経という、欺瞞に満ちた経典を、取り上げる。
それは、日蓮へと、渡り、日蓮宗となり、その後、現在に至るまで、法華経を奉じる、宗教の多々は、余りある。

何故、騙されているのか・・・
解らないのである。

あれは、キリスト教、正確に書けば、東方基督教、そして、景教からのものである。
つまり、そこから刺激されて、書いた、創作の経典である。

ところが・・・
仏陀の、最後の教えと、ある。
いい気な物である。