第二部として、書き始める。
第一部の終わりは、とんでもなく、大変なことだった。
意味不明の、龍樹の哲学、思想である。
というより、屁理屈の極みを、紹介した。
もう、仏教というより、議論のための、議論であった。
書いていた私も、良く解らない。
読む人も、良く解らない、お話しだった。
私が、神仏は妄想である、を書いて、大半の宗教の信者から、嫌われたことだろう。
本当のことを、言われると、怒るのが、人間である。
しかし、本当のことを言う。
神仏は、妄想である。
さて、引き続き、仏教から始める。
勿論、このエッセイは、終わらない。
未完である。
キリスト教などの神学について、書き始めると、死んでも、終わらない。
呆れるほどの、屁理屈の世界が広がる。
また、神学が、学問の中に入っていることが、実に、おかしいのであるが。
奈良の仏教から、新しい仏教の本山を作った、最澄がいる。
天台宗という。
最澄は、唐に出掛けて、最新の仏教を学んだが・・・
実は、嘘だった。
それは、仏教という名の、嘘である。
最も、当時は、仏教が、学問の一つである。
哲学、思想の骨格の無かったと思える日本に、医療までの知識を持って、凱旋したのである。
仏教とは、当時、すべての学問だった。
勿論、儒教、道教も、すでに入っていた。
中国は、当時、最新の文明国である。
だが、仏教は、中国では、発展しなかった。
それは、一時的なものだった。
仏教の名で日本に来た、老荘思想は、禅として、存在している。
老荘思想を抜きにして、禅を語ることは出来ない。
しかし、語る馬鹿者がいる。
ただし、禅は、現在でも、少しは力がある。
理屈の好きな人たちの、愛好会がある。
その他の、仏教は、終わった。
私の、宗教遍歴を少し書く。
父方は、浄土宗である。
母方は、こともあろうに、天理教である。
子供の頃は、両方に出掛けた。
面白かった。
そして、中学、高校と、カトリックの熱心な信者である。
その伏線は、小学四年生にある。
図書館から本を借りる事が出来たので、私は、世界の偉人伝を読み続けた。
そして、高学年になると、また、高学年向けの、世界の偉人伝があり、その中で、イエス・キリストを読んだのが、きっかけである。
そして、六年生の時、犬養道子の、聖書物語を読んだ。
それで、決定した。
教会へ行く。
地元の教会が、カトリックだっただけである。
もし、プロテスタント教会だったら・・・
恐怖の、クリスチャンになっていた、かも。
ちなみに、世界の偉人伝では、数多くの偉人伝があり、多くの偉人たちを知ったのである。
そうして、今の、私がある。
偉人にはならない、私である。
そんなに、偉くなれないと、思った。
ただ、勇気は、与えられた。
死なずに、生きる、勇気である。
中学生の頃から、身近な人の死に、多く出会った。
そして、死を考えた。
すると、宗教が出てくる。
だが、死を考えるものは、宗教だけではなかった。
それが、救いである。
文学があった。
芸術があった。
だが、今も、死なずに、生きている。
そして、死ぬ時は、自害である。
なまぬるくは、生きない。
死ぬ時節が来たら、死ぬ。
死ねば、霊になる。
ただ、それだけのこと。
天台宗から始まった、法華経という、欺瞞に満ちた経典を、取り上げる。
それは、日蓮へと、渡り、日蓮宗となり、その後、現在に至るまで、法華経を奉じる、宗教の多々は、余りある。
何故、騙されているのか・・・
解らないのである。
あれは、キリスト教、正確に書けば、東方基督教、そして、景教からのものである。
つまり、そこから刺激されて、書いた、創作の経典である。
ところが・・・
仏陀の、最後の教えと、ある。
いい気な物である。