国を愛して何が悪い194

 「心はうごきながら、ことばにはいひだしがたく、胸にはおぼえながら、口には述べ難くて・・・」
古来風体抄

藤原俊成の語る言葉である。
詩歌の秘儀たるを言う。

そこで天台止観をもち出したり、貫之の序をもち出したり、神や仏の教えにひとしいと言ってみたところで、実はどうにもならないのである。この点は定家も同じことだ。
亀井

「誠に歌の中道は、唯自ら知るべきにて侍り。更に人の是こそと申すによるべからず候」
定家 毎月抄

どのように、説明しても、更に、その上で、幽玄、有心躰、と言い出す始末である。

「おほかた歌は、必ずしも、をかしきふしをいひ、事のことわりを言ひきらむとせざれども、もとより詠歌といひて、ただ詠みあげたるも、打ち詠じたるも、何となく艶にも、幽玄にもきこゆることの有るべし。よき歌になりぬれば、其詞姿のほかに、景色のそひたるやうなることあるにや。例へば、春の花のあたりに霞のたなびき、秋の月の前に鹿の声をきき、垣根の梅に春の匂ひ、峰の紅葉に時雨の打ちそそぎなどするやうなる事の、うかびてそへるなり。」
慈鑑和尚自歌合

これが、俊成が語ったといわれる、幽玄論であり、古来から、引用される一節だが、実は、説明などは、不可能である。

結果、良く解らないのである。
語るほどに、遠くなるのだ。

つまり、日本の精神には、言挙げせずという、決まりがある。
この決まりは、神道的な世界観である。

その後、明治期になり、西洋の思想、哲学が入ってきて、語るという行為に、意味を見出すが・・・
私は、歌一首で、良しとする。

亀井は、
いくら幽玄論をふりまわしてもどうにもなるまい。幽玄とは何かと定義してみても無意味である。実際の作品こそ問題で、しかも作品は自分の意図どおりにならないのはいつの時代でも同じことだ。またこれこそ幽玄の本体だと言ってみても、鑑賞や批評となれば各人各説となり、微妙な差の出てくることも当然である。
と、言う。

「艶」「幽玄」「余情」と言った言葉が、度々出てくるが・・・
定義出来ない物を、定義するに似る。

ただ、当時の人たちは、その定義づけに、格闘し、翻弄されたのは、事実である。

根底にあるのは言うまでもなく乱世の不安だ。その上での遊戯の世界である。
亀井

例えば・・・

夕されば 野べの秋風 身にしみて うづら鳴くなり 深草の里

浦づたふ 磯の苫屋の 梶枕 聞きもならはぬ 波の音かな

住みわびて 身を隠すべき 山里に あまりくまなき 夜半の月かな

世の中を 思ひつらねて 眺むれば むなしき空に 消ゆる白雲

俊成
千載集、新古今から

何となく、艶、幽玄なのか・・・

亀井は、
乱世に対して、これは内攻した隠遁の精神とも言うべきであろうか。
と、言う。

この延長線にある歌は、抑制の内に、余情の効果を、それとなく期したものである。

定家は、その後に、更に、虚構を好むのである。
華麗な曲芸と、亀井は、言うが・・・

ただ、俊成は、技巧を弄さず、正直な求道的性格をもってした。それを、後鳥羽院は、好んだようである。

「釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。ことに愚意の庶幾する姿なり。」
後鳥羽院御口伝

この批評は実に的確であり、俊成の幽玄とは結局この言葉の範囲につきると言ってよかろう。
亀井

そして、後鳥羽院の歌に、それを見る。

あはれ昔 いかなる野辺の 草葉より かかる秋風 ふきはじけむ

夜船漕ぐ 藤江の浦の 有明に 波路を送る 月のさやけさ

棄てやらぬ 憂き身の果ての 悲しさを 嘆きながらも なほ過ぐすかな

軒は荒れて 誰か水無瀬の 秋の月 住みこしままの 色は変らじ

晴れやらぬ 身の浮雲を いとふまに 我が世の 月の影ぞふけぬる

俊成の歌の、しらべ、に心惹かれている。
つまり、精神の沈潜してゆく姿を、好んだ。

これは、倒幕に失敗し、隠岐島に19年の、流刑生活を送った、後半生の心の底に、吹きすさんだ嵐のような、心境である。

俊成には、思いの掛けぬ、情であろう。

後鳥羽院の、余情寂寥は、俊成の、余情静寂の比ではない。

歌は、西行、式子内親王に近いと見る。

その西行を、続けてみることにする。
ちなみに、もののあわれについて、のエッセイでも、西行は取り上げる予定である。