国を愛して何が悪い198

頼朝挙兵は、1180年より、平家滅亡は、1185年、更に、衣川合戦の終結は、1189年である。
つまり、前後十年に渡る、日本史上最大の、内乱が続いた。

南は、九州大宰府から、北は、奥州平泉まで、全国規模の内乱である。

この間に、源平両軍の移動、戦闘のもたらした被害は、あらゆる階級層に、及んだはずだ。

平家物語の木曾軍の、狼藉として、進撃、退却のときは、民家を容赦なく、焼き払ったと記される。

討死した地方兵士の遺族、孤児、避難民の大群も、予想できる。

歴史の底ふかく埋もれた「思い嘆き」があったわけで、平家物語の作者はこの点は詳しく描かなかったが、「語り」の琵琶法師や路傍の聞き手の胸中には、物語の背後に、それぞれのもうひとつの物語の思い出があったであろう。
亀井

さて、
藤原摂政時代に開花した女房文学や造型を「藤原芸術」とよぶのに対して、仮に「院政芸術」という名称を使うならば、後白河法皇の時代は、その独自の生命力の発揮された時代である。
むろん藤原芸術を継ぐわけだが、それが王朝の夕映えであったとしても、夕映えの逞しさというものがある。同時に「末法の世」と言われた乱世によって、したたかに鍛えあげられたものが共存していたということだ。
亀井 改行は私

今昔物語、宇治拾遺物語、梁塵秘抄など、女房文学とは異質の世界があらわれ、広範囲に渡る層の人々が、登場した。

そこに、絵巻と、造型である。
そして、各寺社の縁起絵巻が、12世紀後半から13世紀に渡り、大量にあらわれる。

院政時代は、絵巻物の時代といっても、いいほとだ。

更に、焼失した、東大寺、興福寺の再興に当たり、新たに、建築、造型の工が起こった。

この時に活躍したのが、定慶を含む、奈良仏師で、すなわち、運慶一派である。

今にまで保存される、運慶派の造型は、乱世にあって、戦った僧兵、荒法師の逞しいエネルギーを背景として、制作されたものである。

無著のあの沈着無比な表情のうちにひそむものは、乱世に堪えぬこうとした強烈な意志である。
亀井

その時代から迫られた、気迫である。
要するに、気迫がなければ、制作することが出来なかった、時代性である。

大動乱のなかで、人間はいかにして生死において堅牢でありうるか。時代から迫られたこの精神の課題に、精魂を傾けて応えようとしたのだ。
亀井

そして、こうした作者たちの出現は、単に武士の台頭だけではない。
武家だけが、テーマの時代ではない。

皇族、公卿、また彼らに仕えた仏師も、絵師も、大工も、それぞれの場で、厳しく試練された。
僧、聖、隠者、民衆も、同じく。

あらゆる階級層が、深部まで揺り動かされ、「死」というものを、凝視した時代である。

いよいよ「末法の世」が到来したというので、地方の豪族までが写経を経筒に入れて土中に埋めたという。

仏法が席巻した、日本の混乱期である。
その仏法の教え共に、その混乱期を生き抜こうとした。

そこに、芸術が関わる。
現在言われる、芸術家という存在ではない。
何かに、没頭せざるを得ない、状況に置かれたと、想像する。

その中の一つが、文芸である、平家物語である。

だが、その時代は、まだ続くのである。

後三条天皇が、新政を復活し、荘園の再構成に当たった、1069年。
しかし、それも、つかの間。
白河院から以後、院政時代に入ると、荘園は我欲と、権力の修羅場と化した。

藤原一門だけの立身のため、長いあいだ志を得なかった中流以下の貴族たちが院政下に集ったが、これが公卿の生命力、一種の新鮮さをもたらしたようである。荘園の争奪、管理等に、地方武士を使って彼らは手腕を発揮し、乱世に生きるために公卿は公卿なりの狡知をしぼったのである。
亀井

院政は、律令国家の完全な崩壊寸前の、変形された異様な権力となり、武士が台頭したとしても、そう簡単には、手が付けられなかっはずである。

それは、平家物語を見れば、解る。

鎌倉幕府が整理した後、結局は、院政が滅びるのだが、当人たちは、滅びるとは、考えていなかった。

源平合戦に処した、院政勢力は、公卿の執拗な策謀ぶなど、生易しいものではなかった。
つまり、滅びそうで、滅びないと言う・・・

平安期四百年に蓄えられた、実力である。

つまり、それは、天皇の勅令、院宣というものに、価値があったのである。
だが、それが、乱用される。
ついには、価値も下がるのである。

王朝の夕映えとしての魅力を発揮するとともに、他方では乱世に激しくゆられながら、野性にとんだ新しい生命力を吸収したことはいま述べたとおりである。
亀井

だが、平家一門は、武家出身でありながらも、自己独自の造型や文学を生み出すことはなかった。
つまり、院政芸術とは、逆行している。

皇室の外戚として、権威を保とうとしたその形だけではなく、全盛期の生活全般も、造型意欲も、ただ、藤原の模倣に過ぎなかったのである。

院政を倒すだけの力を持ちつつも、逆に、藤原栄華によって、内から征服させられてしまったと、いえる。