生きるに意味などない116

そこで、あれは過去の出来事だった、何年の事件だったというふうにいった時には、人は、時間の外にでているのです。あるいは時間というレールの上を前にいったり後ろへいったりするのです。昔の出来事を昔の出来事だと意識する時、人は、過去という過ぎ去った舞台へ足を運んでいるのです。これは、人は時間の外にでているということでしょう。
体は過去へ行けませんが、人間の理性はあたかも神のように時間の外にでることができるとみなしているのです。もともと「神(絶対神)」をもたない日本ではそんなことはできません。理性だけが浮遊して「世界」の外へ出ることも「時間」の外へでることもできません。あくまで「世界」の内の存在であり、「時間」の内にいるわれわれは、この世界を外から眺めたり、時間を外から眺めるわけにはいきません。
佐伯 改行は私

元々、神を持たない日本では、そんなことは、出来ない。
これが、西洋との違いである。

つまり、神の観念が、全く違うのである。
世界、時間の内にいるのが、日本人である。

とするとどうなるのか。今ここにいる自分しかないのです。この「時」しかないのです。一本の直線状の時間などというものはないのです。
佐伯

日本の精神は、そのようである。
それを、再度覚醒させて、日本というもの、その精神を見つめること。

今までは、俄か程度に、西洋の方法に従って、何やら、絶対神があるかの如くに、振舞っていた。
しかし、日本の精神は、別物である。

ところが、この「時」はすぐに次の「時」へと移り行きます。次の瞬間には次の「時」になる。つまり、「今」は次の「今」になる。先ほどの「今」は過去になっているのです。先ほどまでの未来が「今」になっている。こうして、「今」しかない。「今」が永遠に続くのです。西田のいい方を借りれば「永遠の今」しかないのです。
佐伯

実に、驚くべき、意識である。
日本人の、時間感覚は、西洋の時間感覚とは、全く違うのである。


この、今、という、時が、永遠に続いている。それが、日本人の精神にある、時間の感覚なのである。

だから、流れる、と、表現したりする。
行く川の流れ・・・と、いうように時間を、意識する。

以下を注意深く、読むべき・・・

ところがこの「今」を生きる私には、先ほどすでに過去となった「時」が記憶としてであれ、経験としてであれ、私のなかに残っているでしょう。人はただ日々違った身体を持ってその都度その都度を生きるわけではなく、同じ身体をもって同じ脳を使って生きているからです。
身体のなかに、記憶や習慣として過去が蓄積されています。
こうして「今」のなかにすべての「過去」が入り込んでいるのです。また、同じように、人は、常に未来を気にし、未来を予測しながら生きているものだとすれば、「今」のなかにすでに「未来」も入っているのです。・・・
佐伯

私は、今、にしか、生きていないのである。
その、今、には、過去が含まれている。

そして、未来も、含まれる。

過去も、未来も、今ここにある。

いや、「今ここで」思いだしたり、不安になったりするものとして過去や未来があるのです。
佐伯

実に、解りやすく解説している。

過去と感ずるのも現在の感情である。
西田の、善の研究より

過去への記憶と、未来へ向かう意志も、共に、今ここでの、純粋経験、であるとは、西田が言う。

世界や時間の外にあって、万物の創造者としての「神」をもたない日本人にとっては、時間は「ただ今」の延々たる移行というほかありません。人は、そのようなものとして「時」を感じるはずです。
佐伯

常に「今」が生起するのですから、「時」はいつも「新た」になる。絶えることなく「新たな今」が生み出されることになります。いつも「時」は刷新を意味し、出来事は新鮮で、行動はたえず新たな決断を含んでいるのです。「今」が次の「今」になる時、それはいつも新しいのです。と同時に、「今」はたえず過ぎ去りますから、すべては決して常ならないものでもあります。それが「無常」です。「今」は次の瞬間は消え去ろうとする「無」へ帰そうとするのです。
佐伯

この、無常という言葉は、仏教用語として、日本人は、接しているが・・・
何故、それが、素直に受け入れられたのかといえば、日本人は、すでに、その感覚と意識を、有していたからである。

流れ行く時は、無、へと続く・・・
その、無、という感覚と意識は、無根拠であり、無意味である。

何か特別な意味を、見出さない精神が、日本の精神である。

ただ、語らないだけである。
そして、語る必要がなかった。
何故か・・・
当たり前のことだからである。

書かれた物は、書かれなかった物が、あるということである。
その、書かれなかった物とは、当たり前のことだからである。

当時、当たり前のことは、書かれなかった。
記録として、残した物も、書かれないものがあった。

だから、私は言う。
生きるということに、意味を見出す行為とは、余計な行為なのである。
しかし、それが必要な人もいたのである。
それが、少しばかり、残って・・・

それを、手掛かりとして、考え続けた人たちもいたと、言う。

生きるに意味などない、のである。