生きるに意味などない117

かくて「時」は疾走し、常なるものはなく、すべては無へと消えてゆく。しかしそれはまた、すべて新しく生み出される、ということである。あらゆる瞬間に、あらゆるものが、今ここで生み出されたように新鮮で、生き生きとした意味を帯びてくるはずなのです。時は「無常」であるがゆえに常に「刷新」なのです。だからそのなかで行動する者には、「あきらめ」と「覚悟」が要求されたのでした。
佐伯

あきらめ、諦め、と、覚悟・・・
この、諦めは、明らかに見るという意味である。

そして、諦め、とは、ある種の断念でもある。
それを、定めとして、受け入れる心である。

後に出てくるが、この、諦め、と、覚悟は、もののあはれ、という、心象風景に至るものでもある。

時、が、無常であるがゆえに、刷新するという、考え方は、おそらく日本人の精神の、核心である。

西洋哲学を学ぶ者たちは、日本の時間は、ダラダラとして、延々と、のっぺりしている、と、言われるが・・・
単に、知らないだけである。

神の作った時間を、生きるという、西洋人が、神が存在しなくなると、どうなるのか・・・
そして、神は死んだ、のである。

瞬間のうちに、無常と、刷新を感じるということは、とても、難しいが・・・
日本の文化は、それを、芸として、昇華した。

論理的にいえば、あらゆる瞬間に「無常」と「刷新」が含まれているのですが、そんなことは実際に感じとれません。とはいえ、確かにそういうことを感じとる瞬間や出来事はあるでしょう。・・・
そして、一年が過ぎ、年が暮れ、新年のカレンダーをめくるというのは「無常」と「刷新」の制度化といってもよいでしょう。
佐伯

古来、日本人は、そういうことを情緒的に捉え、詩的に表現してきました。芭蕉の句などまさにそういうものでしょう。例の「古池や かわず飛びこむ 水のおと」などにも、そういうニュアンスがある。水のおとは、無のなかから現れ、すぐに無へと消えていまします。おとが聞こえた瞬間は、その背後に「無」をもっている。だからこそそれは生き生きとした斬新な意味を帯びてくるのです。この句を事実の記述などという実証主義で捉えると、まったく何の意味もありません。
佐伯

私が言う、意味付けも、その通りである。
実証主義で捉えると、全く何の意味もない。

だが、「古池や かわず飛びこむ 水のおと」は、日本人であれば、得心するのである。

生きるに意味などない、が、少し見えてきた。

無、という認識である。
無、を、認識するとも、言う。

無、というものを、日本人は、実感として、感じ取るのである。

一人の人の一生も、永遠の時間のなかでは一瞬です。人は永遠の時間のなかの「ただ今」だけを生きるだけです。人の人生を古池に飛び込むかわずと同列にするわけにはいきませんが、人の一生という「ただ今」も、その背後に永遠の「無」をもっているから生き生きとした意味をもってくるのです。
それは「無常」であるとともに、あるいは「無常」であるがゆえに「刷新」なのです。こう考えた時、「ただ今」は「無」という「永遠」に触れている、ということができるでしょう。それは「永遠の今」になる。かくてわれわれは、瞬間でしかない「時」において「永遠」に触れることになるのです。
佐伯 改行は私

永遠の無・・・
そして、ただ今・・・
佐伯氏は、大変優しい方である。

本来は、そこまで説明せず、突き放す。

ただ今、が、無、という、永遠、に触れている。
だから、今が、永遠なのである。

天国での永遠の命・・・など、必要ない民族なのである。

西田は「形而上学的立場から見た東西古代の文化形態」と題する論文のなかで次のようなことを書いていました。我が国の文化の特徴として「情的」なところがある。それは「知的」なものへ傾く西洋とも、また「行的」なものへ傾く中国とも違っている。老荘思想にもみられるが、「時」は無より来て無へ帰る。時は「絶対の無の自己限定」である。そこでは、常に「無」が根底にあるので、「形」をもって今ここにあるものも、その背後に「無」が透かし見られる。
佐伯

時は、絶対無の自己限定、である。
つまり、人間の存在は、絶対孤独、なのである。

その、絶対孤独を知るか、知らぬか・・・
そんな、人間の存在の、生きる、に、意味を見出しても、詮無いことである。

私は、無から出て、無に帰る。だから、もう、いても、いなくても、いい存在なのである。

私一人が、存在しようが、しまいが、何の問題もない。
無の中にあり、無に帰る存在なのである。

だから、日本文化では、ものの「形」を通して「形なきもの」を見る。ものに出会って、その新鮮さに驚くと同時に、そこにある「無常」をも透かし見るのです。あるいは、「形なきものの形」を見ることになるのです。「情的文化は形なき形、声なき声である」という。
かくて「有の思想」である西洋に対して、日本の根底にあるのは「無の思想」だというのです。もしも、われわれの生活のなかにある一瞬一瞬を「永遠の無」に触れる「今」と感じることが日本人の時間間隔に埋め込まれているとすれば、われわれは、もう少し「今」を大切にするのではないでしょうか。
佐伯 改行は私

その、日本の精神から、あらゆることを、評価、評論する時、色々なものが、見えてくる。

政治経済、その他、諸々のこと。
そろそろ、そういう時期に入ったと、私は言う。

形なき、形、声なき、声・・・
日本精神の、面目である。
謙譲の徳、である。