生きるに意味などない118

昨日は今日のためにあり、今日は明日のためにあり、昨日のモノは捨てて、今日また作り、それをまた捨てて明日また作り、こうしてモノを雪だるま式に大きくしてゆき、GDPを年々膨らませてゆく、ということがわれわれの感覚にあっているのでしょうか。
佐伯

延々と、作り続け、そして、捨て続ける。
更に、年々、豊かになった・・・
誰の、策略か・・・

マスコミ、識者、経済学者、評論家に騙されている。

人間の、一生を見れば、始めがあり、盛りがあり、枯れる時期がある。そして、死ぬ。

いつも、いつも、益々と、増えることはない。
それは、異常である。
しかし、異常と気づかない程、やられた。

成長信仰と言う。

更に、我が身を見ることも出来なくなった。
わが身が、何であるかも、見えなくなった。

見える物は、物だけである。
所有したモノだけを、見ている。

そして、それらに、意味があると、信じている。
呆れる。

「今」この瞬間に「永遠の無」に触れるからこそ、われわれは、モノを大切にし、人との出会いを大事にし、そこにかけがえのない「時」を見たのでした。「永遠」は時間を延長した無限の彼方にあるのではなく、「無」もすべてを消し去った後に出現するものではありません。
それは、まさにこの「時」のそのなかにあるのです。むしろ「形」をもたない「無」が、「形」あるモノを現出せしめる、と考えるのです。西田の言葉を借りれば「時に於いては、形なきものが形あるものを限定するのである」ということになる。「無」という「形なきもの」は、それ自体としてどこかにあるのではありません。それは常にモノという「形あるもの」に張り付いてあるのです。それは「形ありながら、形なきもの」なのです。それを感じとるのが情であり、「もののあわれ」だと西田はいう。そこにこそ日本特有の「情の文化」が成立したのです。
佐伯 改行は私

情とは、心である。
情けとも、言う。

もののあわれ・・・
別エッセイ、もののあわれについて、を、参照ください。

モノの、あわれ・・・
モノ、とは、見える物であり、見えない物もある。
それが、あわれ、だと言うのである。

それでは、あわれ、とは、無を基底にした、感じる力。
共感能力である。

それが、日本の場合は、天地自然、ありとあらゆるモノに対して、言う。

私は、日本人の心象風景と言う。
モノだけではなく、人の行為、自然の様に至るまで、あわれ、がある。
つまり、そこには、無を、基底としている、感受性である。

この世のモノは、すべて、あわれ、なのである。

人間の、喜怒哀楽も、あわれ、のうちにある。

すべて、過ぎ去るものの、有様に、もののあわれ、を見る。

そして、この、無、というものは、そのまま、無根拠であり、無意味なのである。
日本人は、それに耐えられた。

確かに、この煩雑極まりなく、多忙をきわめる現代のわれわれが日常の一瞬一瞬に「永遠の無」を観取するなどということはほぼ絶望的という気にもなります。これが日本独特の文化の根底にあるとすれば、われわれはもう随分と日本的なものから離れてしまった、ということでしょう。
佐伯

ほぼ、今の日本人には、その能力が、無い、あるいは、眠っている。
そして、その日本的なものを、伝える人が、極々少ないのである。

いくら情緒にたけた人でも今日「もののあわれ」など感じとることは難しいでしょう。だがこのあわただしさのなかで、一瞬でも「時」の上に留まって静かにこころの声に耳をすまそうとすれば、われわれの意識の底にある「永遠の無」というもののおぼろげな声を聞くことはできるのではないでしょうか。
佐伯

西田は、このような「情」をもつことが日本文化の特性だと考えていました。そして「特殊性を失うということは文化というものがなくなるということである」といいます。端的にいえば「日本」がなくなる、ということなのです。
佐伯

つまり、日本人を生きているのか・・・
もうすでに、日本人を生きない人たちがいる。

そして、それを良しとする。

世界市民だか、地球市民だか・・・
グローバル化した、意識として、受け入れている人たち。

大半が、アホであるが・・・

国際社会で、まず、あなたは、何人ですか・・・と、尋ねられる。
世界市民ですと言えば、信用されない。

更に、国際社会では、それぞの民族が重視される。
そして、その時、国の代表になるのである。

私が、タイのある学校に支援をした時、その学校の先生が、タイ国民として、お礼を申し上げますと、言った。
その人は、タイを代表したのである。

それが、当たり前の国民感情である。
それを、失った日本人である。

日本国民として・・・
誰も、言わないだろう。
実に、呆れる、無様になったものである。