生きるに意味などない119

西田のこの言葉は、無条件にグローバルで普遍的な価値や理念を追い求め、それをよしとする今日のわれわれの「脱日常化」にとってはあまりに耳の痛いことではないでしょうか。
しかし、私は、まだ、日常の一瞬に「永遠の無」を見ようとするわれわれの感受性がすっかり消えてしまったとは思えません。なぜなら、われわれは、この過度なグローバリズムや経済競争や成長至上主義やモノの浪費に対して、とまどい、ほとんど嫌気がさしているようにも思えるからです。
佐伯 改行は私

つまり、無意味、無根拠の中で、ただ、何か解らないが、走らされているという、感覚なのである。

そこで、生きるに意味などない、と言われたら・・・
返す言葉がない。

だが、根拠は、無、なのである。

どう転んでも、意味などないのである。
ちなみに、死んでみると、解る。

私一人などが、生きようが、死のうが・・・全く、世の中には、関係ないのである。

一人成り上がり、富も名誉も、地位も、手に入れた。
そして、死ぬ。

ただ、後は、野であり、山だけが、残る。

後は、野となれ、山となれ、なのである。
人生とは、そのようなものである。

どなたか、大切な役目を負う人が、亡くなっても・・・
50日程度を過ぎると、何でもなく、日々が過ぎている。

80歳をお過ぎになられた、天皇陛下が、葬儀は簡略にして、皇后と一緒のお墓にと、仰せである。
天皇でさえ、そのようである。

その身の上は、天皇のみならず、国民も、同じである。

無、に帰す。

そして、人生は、限られている。
だから、生きられるのである。

永遠に生きる・・・
そんなモノは、化け物である。

欠けては、満ちて、満ちては、欠ける。
その繰り返しの中にあって、人生もある。

人生は、波の様である。
大波、小波が、打ち寄せては、去り、打ち寄せては、去る。
その繰り返しの中に、人生もある。

壺に、金を貯めていた人も、死ぬ。
そして、ただ、その後には、思念だけが、残る。
その、思念を、霊という。

死ぬと、別の世界に、生まれる。と、考える。
それで、いい。
また、死ねば、無、と考えるのも、いい。

いずれにせよ、名残惜しく思えども、彼の土に参るのである。

死んで、花実が咲かない。
終わりである。

終わりがあるから、いい。

そして、その、終わりは、誰もに平等に与えられてある。
自由と、平等は、この世では、実現しないが・・・
あの世では、実現する。

人間は、もののあわれ、を、生きるのであると、日本人は、知っていた。
人間も、モノである。
人間は、あわれ、である。

あわれ、は、無、なのである。

行く水に、行く雲に、共感して、あわれを感じたのが、日本人である。

その精神は、万葉時代から、始まっている。
その精神を、延々として、受け継いできたはずである。

それが、凝縮したのが、歌の道である。
和歌の道である。

それを、伝統と、言う。
日本の伝統は、和歌なのである。

そして、その歌は、延々として、もののあわれ、を歌い続けてきた。
歌から、様々な、芸能が生まれた。
そして、生き方も、である。

最初に、もののあわれ、見た、日本人である。
西洋の、絶対神の存在からの、見方ではない。
全く、別物である。

そのようなモノを、作り上げなくとも、良かったのである。

このような、風土に生まれたのが、日本人である。

ユダヤ・キリスト教の価値観を、学び、今、いよいよ、日本の学びが始まった。無益に、意味をつける必要はない。

日本には、意味より、大事なものがある。
それは、由来である。
あるいは、所以である。

伝承された、意味のことである。
それを、伝統として、伝え続けてきた。

そうして、様々な、民族を寛容に、受け入れる、日本人の、特性が輝く。

無根拠、無意味であるから、すんなりと、何事も、受け入れた。

日本語を学ぶと、翻訳物が世界一であるから、拒否することなく、他民族の様々を学ぶことが出来る。
もののあわれ、であるから、何一つ、排他的ではない。